見出し画像

悪口を発信したくなる理由を考える

あんたも「誹謗中傷」ってキーワードを目にしていたりするかい?

俺の低めのアンテナにTwitterで「誹謗中傷」ってキーワードがトレンドランクに入ってきたって話が引っかかってきた。

どうも木村花さんというかたが22歳の若さで亡くなったてのがきっかけらしい。

死因はまだ不明ってことらしいが、どうやらTwitterを始めとするSNS上で彼女に対する非難が集まっていたらしい。

こう言うたぐいのことは憶測で語るべきことじゃないんだけれど、それでもSNSという「すべてのヒトが発信者になるメディア」ってやつは、ヒトの命につながる可能性があるってことを考えさせる記事だった。

今回は、俺たちが発信するってことの覚悟について考えてみる回だ。

SNSによって俺たちがすべて「言葉」という武器を手に入れている世界。
もう一回、一緒に考えてみないか?

木村花さんのTwitterを覗いてみた

実際、どんな誹謗中傷ってのが巻き起こっていたんだろう?
そう思って、彼女のTwitterを覗いてみたんだけれど、多くのTweetが削除されていたり、閲覧制限かけられているって状況だった

ここにまずひとつのおっかなさがあるよね。

状況だけみて感じたことなので、事実とは異なっているかもしれない。
ただ、自分がした発言を元にヒトがひとり死んだってそのヒトが思って、その原因について証拠隠滅のために自分の発言を消したってことだとしたらだよ?
誰かを単純にディスるってのが、それだけおっかない意味を持つってことが想像できなかったってことになると思うんだよね。

実際、いわゆる「非難」なら、有名人としては色んな意見が集まるってのは普通のコトなのかもしれない。

ただ、わずかに残っていた木村花さんへの「誹謗中傷」っぽいTweetを見ると、ものすごい闇を感じてしまったんだ。

そこにあるのは「状況を改善したい」って思いは全く感じ取れないような罵詈雑言だったんだ。
いわゆる「悪口」。

こんなの言葉にさらされ続けたら、誰だっておかしくなるって思う類の言葉。

俺たちの中にはこんなにも重く苦しい、まるで地の底に引きずり込まれるような言葉が潜んでいるんだろうか。
そんな風に思ってしまうような言葉だった。

なぜ、悪口を書きたくなるのか

多くのTweetが消されているって事実を見ると、おそらくその発言をしたヒトは今の状況から自分の発言がまずかったって判断をしたんだと思う。

確かにヒトが一人亡くなっている原因かもしれない発言は怖くなって消すって心理は想像に難くない。

なら、なぜその発言をするときに「相手が傷つく」ってことをおっかないとそのヒトは思わなかったのか?

これは責めているわけじゃなくて、純粋にその理由ってやつを深堀りすることに意味があるように思ったんだよね。

まず、可能性その1。
そんなに傷つくと思ってなかった説。

木村花さんのTwitterに残っていた悪口を読み返してみると、なんつーんだ?小学生がオマイは!って感じの、ものすごく奥行きの無い悪口だった。
そんな悪口、実社会で言ってたら「大丈夫か?オマイ?」って思われるってのは、多分だけれどその発言を書き込んでいるヒトも思うと思うんだよね。

つまり、ネットの匿名性によって「反撃されない」って安心感が「頭を使わない悪口」を助長しているってことなんだろうか?

つまりヒトは「反撃されない」ことによって「痛みを想像できない」ってことを引き起こすってことなのか。
だとしたら、匿名性ってのは自分を守るものでもなんでもなくて、自分の感性を鈍らせるものだって認識を俺たちは持ったほうが良いのかもしれないよな。

そして、可能性その2。
単純に「反応」してしまった説。

俺たちがガキンチョのころなんてさ、周りの奴らの言葉にいちいち「反応」して、その都度ケンカしてたじゃんか?

で、結局お互いに良くないところあったよねって感じで仲直りするってパターン。
大抵はこの仲直りするきっかけってのは周りの大人だったり、友達だったりしたわけだ。

そう言う経験を積み重ねて、相手に思ったまんまの言葉を返すだけじゃ通じなくて、相手がわかるように工夫するってことを俺たちは学んできていると思うんだ。

ところが、ネットでのつながりってのは「その関係性を発展させたい」って思いがそもそもないから、相手のことを思いやって言葉を選択するって手間をかけないで済むって感覚があるのかもしれない。

でもさ、実際はネットでのつながりって、今の時代では実際的な力を持っているもんだよな。

ついこの間まで全く知らない同士だった奴らが、コラボして何かを産み出すなんてことが普通に起きる世の中だ。

SNSというメディアは俺たちの個人の価値ってものをクローズアップしつつある。
それは匿名性によってぼやかされた「大衆」ではなくて、確固たる存在感を伴って感じられる「仲間」を生み出しつつあるってことだと思うんだ。

せっかく出来たSNSという仕組みを便所の落書きで終わらすのは、いかにももったいない。
俺たちはこのメディアで仲間を手に入れる可能性があるんだからな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはSNSで「敵」を作りたいのか?
それとも「仲間」を作りたいのか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?