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2021年のコミュニケーションを振り返る

あんたにとって2021年ってどんな年だった?

今年も実に多くの出来事があって、その出来事に翻弄され続けたのは毎年おなじみの光景だったよな。
あいも変わらず流行り病は収束することもなく、常に新たな状況を生み出し続けているし、仕事一つとっても実に多くの事柄が起きてはなんとかしてさばいてきているじゃんか。

状況に対応するのがやっとな生活を送っていると、自分の意思ってものがどこにあるのか不安になったりするもんだよな。

今回は2021年を振り返りながら自分の意思がどこにあったのかを整理してみようって回だ。

ちっと俺と一緒に今年を振り返ってみようぜ。

2021年のはじめに俺が考えていたこと

毎日何かしらの更新をしていると、便利なのが過去の自分が何を考えていたのかってのが情報として残っていることなんだよね。

今年のはじめに俺が考えていたのは、今も続く流行り病が与える社会のあり様が変わっているって言う事実についてだったみたいだ。

直接ヒトと会うことが難しくなる世界観で、オンラインでの関わりを中心とした論理的な人間関係ってのが大きな意味を持つようになるって思っていたらしい。

確かにオンラインでの関わりってのは大きな意味を持ってきているってのはそのとおりかもしれないけれど、2021年を過ごしてみた感覚としては、このオンラインの関わりってのは、今までの直接ヒトと会って作り上げる人間関係に取って代わる程の存在感を見せることはできてないってのが実感だ。

このオンラインとオフラインの差はどこから出てきているんだろうか?

オフラインの不便さが与えるもの

思うに、この差はオフラインでの人間関係が持っている不便さにあるんじゃないかな?

オフラインでの人間関係ってのは実に多くの利害関係を生じさせる。
ただ一緒に居るだけで、心地よかったり、逆に不快だったりする。
その理由はそのヒトと自分が積み上げてきた記憶だ。

その結果としての表情を受け止めることをオフラインでは拒否する事ができない。
そこに相手が居る限り、その機嫌の良さも、不機嫌さも、俺たちは受け取ることを避けることができない。

対してオンラインではその積み上げてきた記憶の結果としての表情という情報を俺たちの意図を持って、伝えることも、伝わることもカット出来るってのが今の状態だよね。

つまり今のオンラインでのやり取りを中心にした生活というのは、自分の周りにいるヒトの存在をモニタの向こうに押し込める事ができるって便利さがありつつも、その便利さによって相手の存在感をメチャクチャ希薄にしているってことなのかもしれないね。

希薄な人間関係で作られた世界で俺がしたこと

その希薄な人間関係で出来上がった世界で、俺たちは何をしていたのか?

仕事とかで、やらなければいけないことに追われているときは比較的精神面では楽だったような気がする。
ヒトという存在が自分にとってどれだけ大切だったのかってことを考えないですんだからね。

ところが休日になると、とたんに自分という存在が誰からも求められていないんじゃないかって恐怖感に襲われたりすることなかったかい?

そんなときに、俺は何をしていたか?
多分、つながりを求めて発信を続けてきたんだと思う。

その先にあるのがオンラインで得られる論理的な関係だということは理解していても、失ってしまった物理的な人間関係の実感ってやつを埋めようって行動は止められなかった。
埋めるなんてデキッコナイスなのにね。

そう考えてみると、2021年という時間に俺が何を感じていたのか?

寂しさ

なんだろうな。

いつしか俺たちが流行り病を乗り越えたときに、俺たちが本当に自然に培ってきた人間関係の形をまるきり元の状況に戻すことは多分不可能だと思う。

その前提で俺たちはこの寂しさとどう向き合っていくのが良いんだろうな?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは当面続くこの状況で、俺たちの心の隙間をどう埋めていけば良いんだろうな?

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