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俺たちの仕事がつくった幸せ

あんたが社会に出た時に感じたことって覚えているかい?

会社に入った初日、まあ、ものすごく疲れたことだけは覚えている。
特に何も生産性のあることはしていないんだけれど、それでもものすごく疲れた。
生活が変わることへのストレスってやつだったんだろうな。

でも、そんなことよりも俺の印象に残っているのは、俺の友人がおれに伝えてくれたことだった。

その言葉は、今となってみると常識以外の何物でもないんだが、その気付きはもしかしたらあんまり多くの人が経験するものでもないのかもしれない。
それくらい当たり前のこと。

今回はその当たり前のことを身も心もすっかりオッサンになった俺が振り返って見る回だ。

まあ、なんだ。うん、付き合ってみる?

この社会を構成するもの

その友人が俺に伝えてくれたのは、俺達の目に入ってくる世の中の殆どのものに人間の労働が関わっているってことだった。

道路のアスファルト舗装もそうだし、ガードレールだってそうだし、なんなら空き地の砂利だってそうだ。

ありとあらゆる物が誰かの労働によって、いまそこにある。

その気付きを友人は俺に語ってくれた。
その時は「ふーん」くらいの感想だったと思う。でも、オッサンとなった今、その気付きってものすごい気付きなんじゃないかと思い返したりする。

俺たちは、俺たち個人の思いで俺たち個人の人生を歩んでいると思うよな?

でもそこには複雑な人間同士の関係があって、それは社会との関係だったり、個人との関係だったり、兎にも角にも俺たち個人が本当に単体で判断して起こしている行動ってやつは、事実上無いに等しい。

俺たちは、いつだって誰かのために行動しているってわけだ。

その行動の結果、道路やガードレールや空き地の砂利が今そこにあるってわけだ。

俺たちの社会は、俺たち各々がしている忖度の塊でできているってわけだ。

俺たちを生かしている誰かの思い

この社会の構成物がほとんど誰かの忖度で出来ているってことは、俺たちは誰かの忖度によってこの世の中で生きることが出来ているってことになる。

世の中の全てのことを知っているわけではないと気づいた人類は、果てしなく世の中の真実を追い求めてきた。
アメリカ大陸を発見し、クォークを発見し、携帯電話を発明した。
もし、ヒトが全てを知っていると思い込んでいたならば、こんなに多くの発見や発明は生まれていなかったはずだ。

自分たちは何も知らないということを知るということは、俺たちの欲望を無限に加速していった。
その結果、人口は爆発的に増加してヒトは地球上の他の動植物の多くを絶滅に追いやってまで反映し続けている。

そして、この俺たちの欲望。
これを言い換えると「誰かのための忖度」ってやつになる。

俺たちは俺たち個人が直接幸せになるための行動って実はあんまりしていない。
いつだって、誰かの幸せのための行動をしている。

それが仕事ってことだよな。

こうすれば、誰々が便利になる。
これがあれば、誰々が喜んでくれる。

それが仕事の本質なんだろう。

そんな思いの結果、ヒトは地球上に大繁殖している。
俺たちの仕事は結果に結びついたように見えるよな。

でも、ふと俺たち個人のことに目を向けてみる。
なあ、あんたは幸せに生きているかい?

俺たちは誰かの幸せのために働いているはずだ。
でも、振り返ってみると「俺は幸せだ!」と胸を張って言えるヤツはどれだけいるんだろう?

大きな家に住んで、家族と食事を摂り、爽やかな空気で深呼吸をできるような毎日を送っていても、俺たちは「幸せだ」と胸を張れるんだろうか?

俺たちは何も知らない。
その事実は、禁断の知恵の実だ。

俺たちはその知恵の実を手にすることで、今に満足できないという呪いをかけられているのかもしれない。

そして、その呪いはインターネットという加速装置を手に入れた俺たちにとっては、もはや現実の問題として迫ってくる。

俺たちは、莫大な情報量が存在することを知っている。
そして、その莫大な情報を自分の中で消化することは不可能だと知っている。

俺たちは全知全能になれないことを知っている。

その上で、俺たちは願う。
あんたが幸せであることを願い続ける。

俺たちはゴールの無いマラソンを走っているってことなのかもしれない。

なあ、あんたはどう思う?

それでも走っていることに意味があるのか。それとも欲望にとらわれないブッダのような生き方を見つけに行くのが意味を生み出すのか?


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