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自分の発信が残り続ける意味

あんたは自分が生きていたってことをこの世の中に残したいと思っているかい?

俺たちが生きている理由ってやつを無理矢理にでも言葉にするとすれば、「誰かに覚えてもらう」ってのがあると思うんだよ。

実際のところは、生きる理由なんて大層なものは無くて、ただ生まれてきたから生きているってのが現実だとしても、俺たちは俺たちの命に何かしらの意味を見出したくなるもんだもんな。

そして、その意味ってやつを実感するためには「誰か」の感覚を巻き込まないと出来ない。
ヒトってのは仲間と協力して生き延びてきた生き物なんだから、それは本能みたいなもんだ。

今回は自分の行動や言動が世の中に残り続けることがもたらすことについて考えてみる回だ。

ちっと、俺たちが情報を残す意味ってやつを考えてみようぜ。

存在感を残すテクノロジー

いつもどおり、フラフラとネットの情報を漁っていたら、こんなんが出てきたんだ。

ざっくり言うと、自分の声やら写真やらをAIに処理させて、自分の死後も家族や友人に向けて、あたかも自分が話しかけているように語りかけるAI技術ってのが出来たんだそうだ。

愛する家族を失ったヒトにとっては、これは嬉しいサービスだと思う一方、ちっと怖いなってのが印象としてあったんだ。

だってよ?
そのAIにはその故人の情報は生前にインプットされた以上には増えようがない。つまり、何を言おうとも揺るがない究極の頑固親父がそこにいるってわけだ。

ただでさえ頑固親父な俺が、そんな状態で世の中に残るって状態は実に難しい。
そう考えると、この技術は一過性のものでしか無い様に思えちまうよな。

ヒトが記録を残すってこと

でも、今までもヒトは実に多くの方法で記録を残し続けてきているってのも事実だ。
身近なところなら、書籍だってそうだし、なんならSNSでの発信だってそうだ。このnoteも含めてね。

すべてのヒトが発信者として振る舞うことになったのはネットが生活の一部として溶け込んできたここ数十年の話でしかない。

つまり、今までは一部のヒトしか行ってこなかった、「自分が死んだ後に自分の意見が残り続ける」ための行動ってのを、俺たちは息をするように自然に行い続けているってわけだ。

さっき触れたAI技術なんかより、固定化された情報がそこにはある。
文字通り一字一句このnoteに書かれた文字は変化しないんだからね。

取捨選択出来る情報としての自分

そう考えてみると、俺たちがnoteで記録を残し続けるのはちょっと申し訳ない気分になったりもするけれども、さっきのAIのような「そこに居るような存在感」ってのが無いのが文字の良いところなのかもしれない。

俺を知っているヒトが俺の声で、俺がしゃべるようなことを話しているって状態は、少なからずそれを聞くヒトに影響をもたらすと思う。
それはシンプルな情報ってよりは感情に働きかける何かだよな。

ヒトは感情の発生をコントロール出来ない。
つまり、俺と同じ様に話しかけるAIってのは、その話しかけられたヒトのコントロール出来ないところを刺激してしまうって話だ。

もちろん、文字だけでも同じようなことは起きる。
そこは程度の差って話なのかもしれない。

たださ。俺は思うわけよ。
俺の書いているこのnoteをあんたが読んでくれたときに、「あんたがどう思うのか」ってのを感じてほしいってね。

俺が日々書いているこのnoteは正解ってのを示しているわけじゃない。
その辺に居るオッサンが感じていることを文字にして、その感覚が読んでくれるあんたに何かを考えるキッカケになればスゲーって思って書いているんだ。

つまり、主体は読んでくれるあんたってわけだ。

それは映画だったり動画だったりでも同じ様な側面はあると思う。
作り手は自分の感情を何らかの形にして、あんたの考えを刺激しようとしている。
もちろん、考えではなく感情に訴えかける作品もあるとは思うけれどさ。

少なくとも、俺はあんたの取捨選択の結果としてこのnoteを受け取って欲しいって思ってるんだよね。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちの発信は誰かの取捨選択の幅を増やして行けているんだろうか?

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