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子どもを家族に迎える意味

あんたは障がい者に対する不妊処置を医療機関が施したニュース見たかい?

これさ。
ホントさ。
実に感情を刺激するニュースだよな。

何らかの障害をもったカップルが子育てをするってのは実に多くのハードルがあると思う。
それでも、二人が一緒にいたいと言う気持ちが働いて、一つの結論として子どもを持たないと言う結論を出したとする。

その意思決定に従って医療従事者が「子どもを作らない」という物理的手段を手助けしたって話なんだよな。

なんとなくだけれども、医療従事者の立場や障害をもった当事者の立場、その障害をもったヒトのご両親の立場。
そして、生まれてくるかもしれなかった命の立場。

そのすべてを意識の中においてみたときに、なんとも言えない肌が沸き立つような感覚に襲われたんだよね。

今回はこの俺の言葉に出来ないような感覚について考えてみる回だ。

結構、今回のことを考えるとさ。
俺の感情は尋常じゃないくらいに揺さぶられているんだよ。

その上で、その感情の波に揺られてみようぜ。

ヒトの親になる能力

俺の場合、すったもんだありながらも、息子の親って立場にさせてもらったって経緯がある。

息子の親になるために、俺だけじゃなくて妻にも多大な負荷をかけたって現実がある。

それほど、親になるって欲望はでかいものがあるってのが俺の実感としてあるわけだ。

その欲望のでかさってものに実感がある以上はだよ。
その欲望が自分の能力うんぬんでどうこうなるもんじゃないってのも感覚としてあるわけだ。

もちろん、体質的な課題とかいろいろなハードルがある中で、子どもを持たないって決断をするケースも普通にあると思う。
ってか、そう決断するまでもなく、どうしたって子どもを持てないケースもあるってのが現実だ。

そう言う意味では俺は息子が家族として生まれてきてくれたってのは奇跡と言っていいくらいの出来ごとなんだって思うしか無いよな。

そうなんだよ。
俺は息子の親にならさせてもらった一人のオッサンってわけだ。

自分が「親」になれないと言う判断

その前提で想像してみる。

自分が親になれないって「思った」瞬間があったとして、その時の自分はどんな感情に包まれていたんだろうって。

もうさ。

ホントにさ。

体中の肌がしびれるような感じがするんだよ。
恐怖というペンキを体中に塗りたくられているような感覚。

これが俺の弱さそのものだって言われるなら、まったくもってそのとおりだと思う。
それでもだ。
想像できないんだよ。
この恐怖と対峙している自分ってやつを。

想像を超えた決断をしたヒト

それでも、そんな俺の想像を超えた決断をしたヒトたちが居る。
それが今回のニュースってわけだ。

そんな勇者に対して、どうこう言う理屈を今の俺はひねり出すことが出来ない。
別に障がい者だからとかって言う理由はあまり意味を持たない。

子どもを持たない理由なんてホントに千差万別で、その事情は俺ごときがどうこう言える話では無いと思うしね。

その判断をしたヒトのことを尊敬することすらありすれ、非難したり蔑んだりしたりなんて出来っこない気がするんだよ。

その上でだ。
そのヒトたちの決断を物理的に医療従事者が受け止めるってのが実にエグい話だと思ったりするんだよな。

医療従事者が生命の可能性を断つってこと

本質的にさ。
医療従事者って立場のヒトって「命を救う」ことを目的にその立場に立っているのがレギュラーじゃんか。

緩和ケアにかかわる医療従事者のヒトも居るわけだけれど、最初から「命を救わない医療」ってやつに夢を求めていたヒトってレアだと想像するんだよね。

中絶手術もそうだけれども、命を生まれさせない処置ってのをする医療現場に身を置くヒトの気持ちってのは、実に壮絶なものがあると思ったりもするんだ。

命を守るために学び続けてきたのに、命を生じさせないことを目的に行動している。

俺だったら、体中が粟立って叫びだしてしまう気がするんだよ。

そんな感覚をさ。
俺たちはその立場に立たなければならないヒトに押し付けて生きているってことなんだよな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはそうやって、どこかの誰かに責任を押し付けながら生きてるってことなんだろうか?

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