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「価値観」でヒトを否定するってこと

あんたもカタールワールドカップを楽しんでいるかい?

数々のGIANT KILLINGが起こり、実にエキサイティングな展開になっているように感じられるよな。

これは単純に日本が勝ち続けているってことだけじゃなくて、サッカーという競技に対する状況が変わってきているようにも見える。

そんなゾワゾワする展開もありながら、全然違う観点でカタールのワールドカップを眺めている意見も散見されている。

今回は競技外でのカタールワールドカップに対する意見を眺めてみる回だ。

ちっとヒトの価値観ってやつがどんな振る舞いをしているのかってのを見てみようぜ。

カタールという国におけるLGBTQ

まず、カタールという国はイスラム教が前提として作られている国だ。

これは日本が神道を前提にいろんな価値観が構築されているのと同じなんだよな。
俺たち日本人が山や木々に神性を感じるのと同じように、イスラム教の教えに従った価値観ってのを持っているわけだ。

その絶対的な価値観のなかに同性愛を完璧に否定する文言がコーランのなかにはあるんだそうだ。

昨今のLGBTQに対する俺たちの感覚とは真逆の正義がそこにはあるってわけだ。

で、実際にその正義の感覚に合わせる形でカタールの法律として同性愛に対して禁固刑を前提とした法律が存在している。
つまりはLGBTQのヒトはカタールワールドカップを見に来るなって話になっているってことだ。

それだけ聞くとさ。
生まれながらに持っているLGBTQの性質によって、「法律違反」になるなんて、なんて理不尽なんだって思ったりするじゃんか。

ここ数年のLGBTQに対する俺たちの感覚は結構な変化を遂げていると思う。
実際に、結構な数の性的マイノリティとされるヒトが新たな生き方をてに入れているって話を聞くと、「良いことだよな」なんて能天気に考えたりするもんだと思う。

でもそれってさ。
結構独りよがりな感覚なのかもしれないって思ったりしないか?

宗教というモラル

俺たち日本人は無宗教だなんてよく言われているみたいだけれど、実に多彩な宗教観を日本人は抱えている気がするんだよね。

大前提として八百万の神の感覚があるから、仏教でもキリスト教でも「そう言う神様がいるんでしょ?」って受け入れているってのがある気がするんだよ。

ところが、一神教を前提とした世界観で育っているヒトからすると、「自分の正義だと疑うことすら許されない神」以外の神を受け入れるってのは実に背徳的な話になるんだよな。

つまり、他の神の価値観を受け入れるってことは「悪」そのものなわけだ。

そして俺たちはLGBTQという「悪」を受け入れないという「悪」を受け入れられない。
何言ってるかわからんって?

LGBTQのヒトを「受け入れない」ヒトってのを俺たちは「悪いヒト」って思っちまうじゃんか。
それと同じ様にLGBTQのヒトを「受け入れる」ヒトを「悪いヒト」ってモラルも世界にはあるってことなんだよな。

後者の価値観がカタールという国では常識なんだ。

そう言う価値観の多様性について、俺たちはどう考えていけば良いんだろう?

自分の「悪」という感覚

この多様性について考えるにあたって、実にじゃまになる感覚がある。

自分の中の善悪という感覚だ。

その感覚は非常に独りよがりな価値判断を他人に押し付けることになる。

カタールでLGBTQが受け入れられていないことが「悪」としてしまうことは簡単だと思う。
でも、カタールやその周辺のイスラム諸国でLGBTQを受け入れてはならないという「正義」が厳然と存在しているってのも事実だと思うわけよ。

俺自身はさ、LGBTQの感覚を持っているヒトを社会的に受け入れないことには嫌悪感がある。
これは間違いない。
と、同時にLGBTQの感覚を持つヒトと同じ価値観を共有していくことが出来るのか?って問われたら難しいケースもあると感じている。

そうなんだよな。
俺の中の「善悪」なんて経験値で世の中を測れるほど、俺は多くの経験を積んでいるわけじゃないんだよな。

なあ、あんたはどう思う?

BBCだとかがこぞってカタールワールドカップを「人権侵害を続ける国のワールドカップ」だって報道していることはどんな意味を持つと思う?

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