一過性の多幸感の意味
あんたは何かにお金を突っ込むってことをしているかい?
価値ある人生ってのが何かなんて疑問ってのは誰でも持っているものだと思う。
たとえそれが青臭いと思われても、答えがない質問である以上は心のどっかに引っかかり続けるしかない質問だよな。
なんとなくそんなことを思い出させてくれた記事にこんなのがあった。
いわくホストクラブに百万単位のお金を短期間につぎ込んで、そのヒトがコンビニでカップ麺を買っている姿を見たらどう思うか、っていうも質問をめぐるやり取りが記事にされているものだったんだ。
確かに、ものすごいお金をホストクラブという場所で使っていたヒトが自分の食事にカップ麺をチョイスしていたってのが事実だとして、その事実から感じられるものってのはいろいろありそうだ。
今回はそんないろいろについて言葉にしてみようって回だ。
お金と自分。
いったん考えてみようぜ。
ホストクラブという価値
まずもって、ホストクラブってのは俺はいったことはない。
ってか、よくホストクラブで働いているヒトって働くきっかけをつかめたよな。
職場環境の情報はほとんどが噂でしかないようなものしかつかむことが出来なくて、そこに何らかのつてなりを経由して働くようになったってことだよな?きっと。
俺の感覚からするとホストクラブで働くヒトってどんだけ勇者だよって思っちまうんだよな。
未知に対する恐怖の振り切りかたが半端なくね?
で、当然のように俺も全くホストクラブというところがどんな価値を提供してくれる場所なのかがわかっていない。
いわゆる男性向けの風俗店とはまたちっとアプローチというか表現される価値みたいなものが違う印象なんだけれど、どうなんだろ?
#識者求む
まあ、俺が認識出来ているかどうかは全く関係なくホストクラブという業態が成立しているわけだから、そこに価値を見いだしているヒトがいるってのは揺るがしようのない事実ってやつだろうな。
形に残らない価値
で、知らないながらも無理矢理その価値ってのを想像してみるわけだけれど、たぶん何らかの形で自己肯定感みたいなものを感じることが出来るってことなのかなぁとか思ってみる。
江頭2:50さんとか、めちゃくちゃ前向きにいわゆる風俗のお店を楽しんでいるように見えるもんな。
ぶっちゃけ、誰かと楽しく話すのって男女に関わらずオモロイもんね。
特に相手が自分の話していることを楽しそうに聞いてくれるのってものすごい多幸感があるじゃんよ。
そこに商売が関わるかどうかって違いはあるかもだけれど、たとえ商売抜きだったとしても、その「オモロイ」が一過性のものだってのには変わりがないはずだもんな。
もちろん、その一過性の「オモロイ」が積み重なって、また形の違うオモロイを産み出すとかはあると思う。
でも、それこそ商売の有無って関係なくない?
形に残らない価値だからこそ、その価値に意味を持たせるのはその事に関わったヒトが主体的に抱える課題みたいなもんだもんな。
一過性の多幸感と日常
じゃあ、俺はその課題ってやつをどう捉えているのか。
最初に紹介した記事だと、ホストというヒトたちが感じているお金というものに対している「何か」について、このインタビューをしたヒトは完全に想像の外の世界だったように見える。
それが良いか悪いかというより、思考を発展させていくための共通の足場を見失ってしまっている感じ。
ホストのヒトにとっては、お金というのは価値を見える化するためのツールなわけで、その見える化した結果が大きな価値を表現しているって感覚なのかな?
俺としては、その論理展開そものもにはなんの違和感も矛盾も感じない。
でも、共感するのか?って言われると、共感するための地面は今の俺には見つかっていない。
なんとなく、ホストクラブでの豪遊という夢の世界と、現実のカップ麺の食事というギャップがそのヒトにとっての幸せってのをかえって壊しちゃう気がしてしまうからね。
当然ホストという仕事が提供するのはその場の夢の世界なんだから、日常生活の幸せってのは仕事としては完全にスコープの外の話だ。
そうか、俺はそのヒトにとっての夢の世界と日常の世界が地続きだってことを信じているから、幸せの濃淡を意図的に一点に集中させることで歪みが生じるってのを心から信じきってしまっているってのがあるのかもな。
なあ、あんたはどう思う?
そんなことを言い始めたらすべてのエンタメを否定することになりゃせんか?って思うかい?
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