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オモロイの責任

あんたは日々のニュースってのをどうやって眺めている?

数々の事故や事件を取り扱いつつ、エンタメに対する流行を伝えてくれるニュース。
マスメディアによるニュースも個人による発信も同じくあることだと思うけれど、誤報だったり意図的なフェイクなんてのもあるように見て取れる。

特にNHKみたいな視聴者から直接お金を取って放送をしている放送局ですら、フェイクを流したことがあるわけだから始末に負えないよな。

今回はメディアと個人の情報の信頼性について考えてみる回だ。

俺たちが何を信頼していけば良いのか、ちっと考えてみようぜ。

マスメディアの立場を想像する

民法、NHKの垣根なくいわゆる捏造報道みたいなものは枚挙にいとまがないってことらしい。

なんか斜め読みしてみると、どうもいわゆるニュース番組における捏造報道ってのはレアケースでバラエティやドキュメンタリーのような大きな枠で言うところの娯楽番組で起きているように見えるね。

民法は視聴率を稼がないことには売上が上がらないので、より刺激的なコンテンツに仕上げることは利益を追求する企業としては当たり前の行為だと思う。

もちろん、偽情報で刺激的なコンテンツし仕立て上げられると俺たち視聴者は困るわけだ。
なので倫理委員会みたいなものを設置しながらチェックをし続けて報道をしているってわけだ。

NHKであっても視聴率争いから免れるものじゃない。

結局は民法と同じ土俵で切磋琢磨することがNHKにも求められていると思うからね。

こう考えると、マスメディアは「オモロイ」ということに責任を負いながら想像を超えたプレッシャーの中でコンテンツを作り続けているってわけだな。

個人はオモロイに責任を負っているか

じゃあ、個人で発信している俺たちはオモロイに責任を負っていないのか?

まあ、売上につながらない発信は直接的には経済的な責任ってのは生じないってのは言えるかもしれない。

ただ、経済的って限定をとっぱらって考えてみると、俺たちの発信ってのは俺たち自信が持っている信頼って資産を失う可能性ってのがあるから、必ずしも全く責任を持っていないって考えるのはちょっと違うのかもしれない。

なので、何かの事実について発信するときには、出来るだけ客観的に「どうしてそう考えたのか」ってことを意識しないとならないはずだよな。

ただ、個人で情報の裏をとり続けることには限界があるから、その判断基準としてマスメディアの発信を用いることも普通にあると思うんだ。

そう考えると、捏造が実績として積み上げられているバラエティーやドキュメンタリーを考えるもとネタに使うことは結構危険なのかもしれないな。

純粋な事実はそのままではオモロイものじゃない

ただなぁ。
シンプルな事実だけだと、読んでくれるヒトに伝わらないんだよ。
何がって?
物語がだ。

例えば、野球やサッカーとかのスポーツの試合結果って情報があったとする。
その結果だけなら、ちょっと調べればすぐさま情報としてゲット出来るじゃんか。

その情報を俺たちの発信から手にする必要性は読み手のヒトからしたら全くないわけだ。

なので、俺たちは「俺たちの思い」っていう自分が考えるオモロイを付加して発信する。

ところが、この元となる情報を捕まえにいく段階で、俺たちの個性っていう色眼鏡がフィルターとして働くってのは避けようの無い事実だと思うんだよ。

例えば、俺が自民党という組織が消費税というものに対して減税という手段を検討しないと自民党総裁が発言しているって事実があるじゃんか。

この事に、俺なんかは結構興味をもって状況を眺めているんだけれど、他のヒトにとったら、特に興味ないですけどなにか?みたいになるヒトも普通にいると思うんだよ。

興味の対象が違うからこそ、個性というオモロイが出てくるって面もあるとは思うんだけれど、ポイントは俺たちが俺たちの個性ってやつを完全に俺たちの支配下においているのかってことだと思うんだ。

たぶん、おいてない。

俺たちは俺たちがオモロイと思うものを取捨選択なんてしてないと思うんだ。

だとすればだよ。
俺たちは俺たちのオモロイにどう責任を持てば良いんだ?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちが感じるオモロイを俺たちが伝える責任っていったいなんなんだろうな?

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