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満足を得るための命の使い方

あんたも自分の時間ってのを大切に生きているかい?

ヒトが生き物である以上は自分が使える時間ってのが有限で、なおかつ一度使ってしまったら取り戻すことが出来ないってのは誰であっても共通の制約事項だよな。

最近、息子が自分の時間が自分の好きなこと以外に消費されることに対してものすごい抵抗感を感じているらしい。

当然、小学生らしく自分の成長のために時間を使うとかそう言う意識ではなく、あくまで「自分の好きなこと」に時間を使いたいって言う、メチャクチャシンプルな欲求なわけだけれども、この「時間」って概念が息子の中で価値を持ち始めたってのが結構な意味を持ってくる気がしたんだよね。

今回は俺たちが等しく失うことが宿命付けられている時間について考えてみる回だ。

ちっと俺たちの命の使い方について考えてみようぜ。

生きるために時間を使うという矛盾

息子がゲームや動画視聴に自分の余暇を使っているのを眺めてみて、なんとなくもったいない時間の使い方をしているなぁと思ったりもするんだけれども、ふと考えてみる。

いや、もったいなくない時間の使い方ってなんだよ。

それがいつかってのはわからないけれども、俺たちは例外なくどっかのタイミングで命を使い尽くす。
その瞬間にラオウのように「我が生涯に一片の悔い無し!」と言い切ることが今の俺に出来るのか?
いや、そんなんラオウだから出来たことなんじゃねぇの?

そんな事を考えていると、またちっと違和感が出てきた。

普段から俺たちは仕事の為に時間を使っている。
これは文字通り命を消費して日々の命を維持するための資金を手に入れているってことなんだよな。

あれ?命を永らえるために命を使ってる?
それって意味あんの?

仕事という行為の意味

仕事って行為によって俺たちが得ているものが収入という命を維持するための道具だけだとすると、単純にどれだけの時間を費やすことによってどれだけの時間を維持できるのかって話になってくる。

例えば俺たち一人が生きていくためにもろもろ毎月20万円かかるとして、年間240万円。
100年生きるとしたら2億4千万円のコストがかかる。

40年でそのコストを収入として得るためには、毎年600万円が必要って話になってくる。
結構なお金だな。

で、そう言うふうに俺たちの命をお金で換算し始めると感じてこないか?
「そんなもんなのかよ?」ってさ。

それも一つの現実の捉え方ってのもあるかもしれないが、俺たちは「そんなんは嫌だ!」って心のどっかで感じているじゃんか。

命で俺たちが得ている価値

俺たちが必死こいて仕事やら生活やらで時間を使っている結果が「俺たちの命の維持」以外に価値を俺たちに与えている。

そう思わなきゃやってけないって感じている俺たちの感覚はきっとなんかの意味がある気がする。

ってか、その意味を俺たちは欲しているじゃんか。

意味というのが俺たちヒトを発展させてきた「虚構」である以上は、その存在を俺たちは作り出すことだって出来るはずだ。

それは娯楽に興じることで得られる快感かもしれないし、何かを達成したときに感じる自らの成長かもしれない。

俺たちはその快感も成長も感じるために同じ様に時間を使っている。
それも命の使い方ってわけだ。
できればそう言うことにできるだけ俺たちの命ってのを使っていきたいもんだと思うじゃんか。

そう言うことってなんて言葉になるんだ?
きっとこれだな。
「満足」だ。

俺たちは「満足」を感じることに命を使いたいってわけだ。

「満足」を感じるために必要なもの

じゃあ、この「満足」ってのはどうすれば手に入れることが出来るのか?

当たり前かもしれないけれど、やっぱり「目標」なんだよな。

逆に言えば「目標」ってのが形になっていないと俺たちは「満足」を得ることが出来ないわけなんだよな。

でもその「目標」ってのがまた難しい。
だって、俺たちの人生の「目標」なんてテーマはどこにも答えが無い話だもんな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはどうやって満足へたどり着く人生を得ることが出来ると思う?

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