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子どもの劣等感

あんたも自分の子どもの教育に迷うことってあるかい。

いろんな立場のヒトがいるから、必ずしもってことはあると思うんだけれども、俺は絶賛子育て迷い中なわけだ。

いろいろな要素はあるんだけれど、息子が俺に質問をしてきたときってのがある。
で、俺は回答するわけだけれども、その回答を息子が理解できなかった時の息子の挫折感ってのが俺の小学生だった頃に比べ得て比較にならない位に感情に影響しているっぽいんだよな。

それがなぜなのか。

そりゃね。
俺も小学生の頃にはめちゃくちゃ挫折感を味わった記憶はある。

ああ、俺は何も出来ない人間なんだって思ったのは肌がビリビリするくらいの記憶として残っている。

でも、それでも。
息子の挫折感みたいなものとは違う気がするんだよな。

今回は子どもの挫折感ってのをオッサンが考えてみる回だ。

ちっと、オッサンが子どもの痛みについて考えるのに付き合ってくれよな。

理解できない痛み

まずもって、当然だけれども子どもってのは多くのことを理解できない。

勉強だってそう。
親の言ってることだってそう。
友達の言ってることだってそうじゃんか。

その実に多い「わからないこと」に苦しみ続けるってのが子ども時代ってやつだよな。

そして、当然子どもなんだからそう言う苦しみに耐える経験をつめてはいない。
そう言う耐える経験を積み上げることで大人になったときに受けるもっと理不尽な痛みに耐えることが出来るってもんだもんな。

自分の子ども時代に感じていた痛み

俺自身も実に「理解できない」って痛みを感じていたと思う。

小学校でのクラブ活動でも他の子どもとくらべて自分ができることが少ないって常に感じてたし、中学受験にも見事に失敗したし。

で、そのことについて「努力が足りない」って理由を感じていたし周りの大人からもそう伝えられていた。

そう言う側面は確かにあるし否定するべきもんでもない。
ただ、それ以外にも才能みたいなものってのは確かにあると思う。

俺の感覚だと知識を拾いに行くのに苦痛を感じないって分野はヒトによって違うじゃん。
数学だったり、国語だったり、なんかのスポーツだったり。
そいつを才能って言うんだと思うんだよな。

で、その才能ってのの差みたいなものを感じたときに劣等感だったり優越感だったりを感じるってのは大人になってもなんも変わらんじゃんか。

そう考えると、俺が子どもの頃に感じていた劣等感は大人になってから耐える練習だったし、優越感はそれをむやみに外にさらさない練習だったんだろうな。

劣等感に耐える

じゃあ、劣等感って耐えなきゃいけないんだっけ?

逆に劣等感に耐えていないときにヒトはどう動くもんなんだ?

こいつは想像にすぎないんだけれど、劣等感に耐えられなかったヒトってのは自分か相手かを攻撃し始めちまうんじゃないかな。

自分より優れた何かを持っているヒトのあらを探し、そのことを突いていく。
SNSで見る中傷合戦みたいな感じ。
※って書けるほど中傷合戦見てないんだけれど。
 昔の2ちゃんとかで見た感じ

相手を攻撃することで、自分を相対的に「価値ある存在だ」と思い込む。
なんつーの?
全然生産性がない感じ。
かつ自分の能力は変わらないので劣等感は実際にはなくなることはないし。

で、俺の感覚では更にまずいのが自分自身を攻撃し始めちまうパターン。

「自分はダメなやつだ」
その言葉は奮起につながることってほとんどないと思う。
ひたすらに自分を責め続けて何一つ前に進めなくなっちまう。
最悪のケースになっちまうなんてことだってあるだろう。

だからこそ子どもの頃に劣等感に耐える練習をするってのは意味があるはずなんだよな。

いや、もしかすると「耐える」って言葉が違うのか?
「受け流す」か?

心の中にある劣等感を意識しながらも、その劣等感を一旦横に置いておく技術。
俺たちはそいつをなんとか活用しながら今を生きているじゃん。

それをどうやって子どもたちに伝えていくかってことかもな。

なあ、あんたはどう思う?

子どもたちにどう寄り添っていけば、その技術を伝えていくことが出来るんだろうな?

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