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会話で使われる「普通」

あんたも仕事をする中で仲間と作業を進めることってあると思うんだ。

ヒトって生き物が協力という特殊能力を活かしながら生き延びてきたって経緯から考えても、協力のためにコミュニケーションをするってのは息をするように自然にやられていることだと思う。

ところが、このコミュニケーションと一言で言っても、どうするのが正解なのかなんてのを確信しているヤツなんてそうそういるもんでもないと思う。

今回は会話の上で誰かに何かを頼むときの話し方について考えてみる回だ。

あんま何も考えてないと仕事の能率が知らず知らずのうちに下がっているってのもあるからな。
ちっと考えてみようぜ。

相手に何かを期待するってこと

これは仕事に限った話じゃないけれども、俺たちは何かにつけて他のヒトに何かを期待しているじゃんか。

息子には健康でいてほしいから、ある程度運動して欲しいと思うし、家族の精神状態を安定させるために、妻にはあまり怒りの感情を表に出してほしくない。

その期待を実現するためには、相手の行動ってのが必要になるんだけれど、当然のごとく相手は自分の思うようには行動しない。

まあ、そりゃそうだ。

そもそも自分の考えが最も効率的だってことを俺自身が証明していないし、場合によっては自分の考えの正しさなんてことを考えもしなかったりするもんな。

つまり、相手に何かを期待することによって、何らかのすれ違いってのが生じるってのが現実なんじゃないかって思うわけよ。

相手への期待が実現しなかったときの言葉

で、そう言うすれ違いが起きるのが自然である「期待」に対して、自分の思う通りに「期待」が実現しなかった場合に、俺たちがついつい使っちまうNGワードってのがあると思うんだよ。

何かって?

「普通」だ。

「普通〇〇するよね?」
「普通そうは考えないよ」

って言う感じの「普通」ね。

こいつは多くの場合は話す側のヒトの中にあった「期待」を話す側のヒト自身が言語化出来ていない時にでる言葉だと思う。

本来であれば、その行動が必要な理由があって、その理由に従って実現したい事柄があって、その事柄を実現するために最も効率の良い行動があって、その効率の良さを証明する理由がまたある。

このことがコミュニケーションをする双方の間で共通認識を持てていれば「期待」が実現される可能性はグッと高くなる。

それでも「普通」が使われるわけ

ところが日本人の美徳には「察する」ってのがあって、「みなまで言うな」ってのがある。

こいつは、日本という国が世界的に見ても有数の天災に見舞われる土地だってのが関係していると思うのよ。

天災ってのは基本はいつどこでどう起きるかってのがわからないもんだ。

そのために、日本に住むヒトはその天災が起きると臨機応変に行動する必要に迫られる。
そして、天災が過ぎ去ったあとも、天災によってもたらされた被害を迅速に復興する必要がある。

その両方において、わかりきっていることをコミュニケーションする余裕なんて無いんだよ。

そのわかりきっていることを別の言葉で言うと「常識」になる。

日本人は昔からこの「常識」を共有しているという虚構によって、天災への対応をし続けてきたってわけだ。

そりゃあ、「普通」って言葉が消えないのも道理だよな。

価値観の多様化と「普通」

ところがだ。

ネットが生活の一部になってからこっち、俺たちの「常識」は実に多様性を含むようになってきている。

「普通、家で料理するでしょ?」
「なんでよ?普通、出来合いのもの買って食べたほうが効率的だって思うじゃん」

「普通、夏休みを取れたら旅行するよね?」
「なんでよ?普通、今の御時世考えたら、おいそれと出かけられるもんじゃないだろ?」

「普通に考えて、積極財政をしようとしないのは間違いだよな?」
「なんで?普通に収入より支出が多いって状態はまずいでしょ?」

こんなすれ違いはいくらでも思いつくよな。

現実的にはどこからどこまでが常識なのかなんて定義が出来ない以上、このすれ違いは必然なわけだ。

だからこそ、理由を丁寧に積み重ねてコミュニケーションを進めることが大切になってくるわけだが……。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは俺たち自身や相手のすべての行動に対して理屈をつけて説明するなんてことが出来ると思うかい?

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