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理不尽の価値

あんたは学生のときに先生方からプレッシャーを受けたってことがあるかい?

なんとなくネットニュースを眺めていたらこんなのがあったんだ。

おうおう、レポート提出が1分遅れたら留年と来たか。
そりゃひでぇなぁ。
と思いつつ、そんな先生だってことわかっているなら、余裕を持ってレポート作成するくらいの計画性をなんで持てなかったんだとも同時に思った。

シンプルに自殺まで追い込まれてしまった学生さんには憐憫を感じるわけだけれども、そのメンタリティをもっていた人物が看護という過酷極まりない環境に耐えられたのかって言われるとどうなのかなって思ったりもする。

今回はこの教師によるパワハラという課題について考えてみる回だ。

教育ってやつの形についてちと考えてみようぜ。

体罰の存在

俺がガキンチョの頃はまだ普通に体罰という教育形式が残っていた。

悪ガキにはゲンコツが普通に飛んできたし、教師が生徒を怒鳴りつけて叱るなんてのはもっと普通にあった。

ガキどもはその恐怖におののいていたし、その恐怖故に成立していた規律ってのも確かにあったと思う。

俺の感覚としては、その体罰ってのが担っていた役割みたいなものも確かにあったようにも感じているんだよな。

いやまあ、体罰ってものに対する違和感みたいなものは普通にあっても不思議じゃないと思うんだよ。
でもそれでもだよ。

世の中の理不尽さってものを体感する経験をガキの頃に体験できないってのは子どもにとって不利益になることなんじゃないかって思ったりしないかい?

子どもが理不尽を感じる価値

いや、現実的にね。
子どもが大人になったときに実に多くの理不尽にさらされるわけじゃんか。

ここで言う大人になるってのは実に多くの意味を含むわけだけれども、一旦は会社なりで社会的に経済活動を始めたときって考えてみる。

会社で組織に組み込まれたとしたら、その組織としての理屈ってのが存在している。
そして、その組織の理屈ってのは今まで自分なりに作り上げてきた理屈とは相反することが多いと思う。
自分で起業するようなケースはもっとシビアだよな。
なんつっても、「相手を育てよう」とも思っていないヒトが自分の都合だけで無理難題を突きつけてくるわけだからな。

要するに世界観を強制的に広げられるって経験をそこで積むわけだ。

その世界観の広がりってのを学生時代に積み上げるってのが本来の姿だとおもうんだよな。

パワハラ認定の価値

そう考えた上でだよ。
教師に対するパワハラ認定が出たってのがどういう意味を持つんだろう?

今積み上げてきたロジックに伴えばだ。
子どもには理不尽を経験させるべきだ。
そう俺は書いてきた。

それはそれで間違いじゃないと思う。

子ども時代には辛い経験を積み上げていく必要はものすごい価値を産み出すと思うしね。

それと同時に子どもたちには「理不尽を許さない」って考え方も学んでほしいんだよな。

なんつーの?
戦うことで誰かを守れるって感覚を身に付けて欲しいっつー感じ。

どこかの誰かの未来のために自分が動く意味を考える経験。

そう考えるとさ。
教師の皆さんがパワハラという理不尽を表現してもらうことそのものにも意味があるような気がするんだよな。

1分レポート提出が遅れた。
それだから人生を狂わせかねない留年という罰を生徒に与える。

実に理不尽だ。
だからこそ、その理不尽を子どもたちに経験させる意味。

この先にさ。
いくらでもそんな理不尽ってのは降ってかかってくるわけじゃんか。

常に最悪を想定しろ。
世界はお前の想像の斜め上を行く。
それを俺たちは感じ続けているわけじゃんか。

その経験をさ。

子どもたちに伝えていかないといけないってのは現実だと思うんだよな。

ならさ。
この1分レポート提出が遅れたことで留年の判定を受けたという話をだ。
俺の身の回りの子どもたちにどうやって伝えていくべきなのかって話だよな。

なあ、あんたはどう思う?

いったいどうやって、子どもにこの理不尽を伝えていくべきなんだろう?

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