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ニューノーマルでの子どもたちの経験

あんたも子どもの成長について日々考えを巡らせているかい?

最近の息子を眺めているにつけ、どうにも母親への依存ってのが目につくんだよね。

事あるごとに「おか~さ~ん」って呼びかけている。
ちとお母さんっ子が過ぎているような気もしているんだよね。

まあ、小学校低学年なんてそんなもんだと言えばそれまでだけれども、今のニューノーマルな状況ってのは、そんな些細なことも子どもの将来に影響しかねないって考えたら、あんたはどう感じる?

今回は、息子の教育について考えていることを振り返ってみる回だ。

ちっと俺の思考整理に付き合ってくれよな。

コミュニケーションをとる訓練

俺が一番気にしているのは息子のコミュニケーション能力についてだ。

ニューノーマルな状況は、子ども同士のコミュニケーションの場を明らかに減少させていると思う。

学校は再開してもらって、それなりに集団行動ってやつを経験させてもらっているけれども、家に帰ってきてから誰かと遊びに行くってことはほとんどない。

ニューノーマルで親が子ども同士の接触を嫌っているというのもあるし、そもそも、子どもたちの娯楽は俺たちがガキンチョのころのように「相手」を必要としない娯楽にあふれている。

動画を楽しむにしてもオンデマンドで様々な映像作品を楽しむにしても、相手を必要としない娯楽なんだよな。

最近のゲームではコミュニケーションを楽しむってものもあるけれども、前提としてオフラインでの交流があってこそ子どもにとっては楽しめるものだと思うんだよね。

そう考えると、放課後のクラスメートとの交流が無くなっている今の状況は子どもたちの成長に明らかなデメリットを生じさせていると思わないかい?

親が世の中の窓口になるってこと

子どもがある程度小さい時は、子どもにとっての世界がすべて親を通じて経験するってのは自然なことだとは思うんだ。

ヒトって生き物は生まれた時は誰かのお世話がなければ簡単に死んでしまうようにできているわけだしね。

ところが同時にヒトという生き物は社会を形成して、その社会とか関わっていくことで生き延びるという性質も併せ持っている。

そして、社会というのはコミュニケーションによって成立しているよな。
どんな仕事でもイベントでもコミュニケーションによって実体化されているってのは揺るがし難い事実だと思うんだ。

つまり、子どもは遅かれ早かれこの社会ってやつとコミュニケーションって道具を使って相対していかなければならないわけだ。

なので、子どもの社会への関わりに親が関与し続けてしまうと、その生き残るための能力を育てる機会を逸してしまうって思うんだよな。

誰かと「調整する」って経験

俺たちが曲がりなりにも大人って扱いで社会に出てからこっち、俺たちは実に多くの経験をしてきていると思うんだ。

その中で最も大切なスキルって言ったらあんたはなんだと思う?

俺は「調整」なんだと思うんだよ。

相手と自分と場合によってはさらなる第三者との利害関係を調整する。
これってどんな仕事をやっていたとしても絶対に避けて通ることができない要素だと思うわけさ。

調整ができなければ、物事が前に進んでいかないし、場合によっちゃ「おまんまの食い上げ」の状態になりかねない。

そんだけ重要な調整のスキルなのに、俺たちはそのやり方を義務教育どころか大学に行っても体系だった学問としては習ってきていない。
もぉ、やってみた経験がすべてってわけだ。

そんな俺たち大人が子どもに体系だった調整の仕方なんてものを伝えられるのか?
そりゃぁ無理な話だ。

せいぜいが「相手の立場を考えよう」って伝えるのが精一杯ってやつだ。

だとすればだよ?

子どもたちが社会に出てから「はじめて」調整の経験をしたとしたら……。
そいつは悲劇以外の何物でもないよな。

だってよ?
メンコで遊ぶルールの微妙な差を取り決めしたり、大富豪のルールをどこまで取り入れるかを友だちと調整したことが無いやつが、大人の世界での調整なんてデキッコナイスだべよ?
#出典 :学研ひみつシリーズ「できるできないのひみつ」

でもこのニューノーマルな状況でそいつはどうやったら経験出来るのか?

なあ、あんたはどう思う?

子どもたちはどうやって大人の階段登れば良いんだろうか?

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