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夕焼けという経験

あんたにもさ、子どもの頃の風景ってのが残ってたりするかい?

学校の校庭。
近所の公園。
近くの雑木林。
水溜まりに映る空の色。

その全てが今のオッサンになった自分の中にきっちり残っている感覚があるんだよな。
思い出すたびに目から汗が出てくるやつだ。
いやぁ、俺、汗っかきだからさ。

そんななかで、こんな写真を見せてもらった。

夕焼けとかさ。
もう、絶対に子どもの時に俺たちを包み込んでくれていた象徴じゃんか。

夕焼けという日常は、ガキンチョの俺を両親の待つ家に帰ることを教えてくれる存在であり、同時に学校が終わって友人と遊ぶことを象徴する存在でもあったと思うんだ。

それなのに今は目の前のディスプレイに表示されている成果報告だったり、経過報告だったりの情報が全てですぐそばにあるところから見ることが出来るはずの夕焼けに目を向けることってレアだよな。

今回は夕焼けという物語をもう一度考えてみる回だ。

まあ、ちっと俺たちの思い出ってのを振り返ってみようぜ。


学校の校庭という楽園

俺のガキンチョの頃ってさ、学校の校庭って放課後だろうが授業前だろうが、自由に出入り出来て遊んでいられたんだよな。

なので、学校が始まる前にみんなで集まってサッカーをしたり、なんも考えずに駆けずり回ったりしてたんだよな。
放課後も、ケイドロしたりなんだったりと、やたらに楽しんでいた気がする。

サッカーするにしても、各々がサッカーボールを持ち寄ってやるんだけれども、「おめーのボール固すぎるんだよ!」とかガキンチョっぽい難癖が飛び出したりしていたっけか。

なんにしてもガキンチョの俺たちにとって校庭ってのは社交場だったんだよな。

社交場の終わりを告げるもの

で、その社交場の終わりを告げて来るもの。

それが夕焼けと「夕焼けこやけ」の放送だった。

あの音楽が流れたときにはたと空を眺めると確かに夕焼けになっている。

ああ、そうか。今日はこれでおしまいか。
そんな風にみんなが思っていた気がする。

そのときは思いもしていなかったんだけれども、俺の記憶の中の夕焼けをたどってみると、たまらないほど美しいんだよな。

あの経験ってのは俺にとっての財産ってことだったんだろう。

友人たちとの遊びと夕焼けの景色が結び付いているってことなのかもしらんけれどね。

今の子どもたちの遊び

ところが、今の子どもたちは校庭で遊ぶことが出来ない。

学校の管理運営の責任問題ってのが注目されていて、学校の校庭に朝早く入ることすら出来ないし、放課後も校庭で遊ぶことは出来ない。

なんか事故が起きたときに責任を持てる大人がいないからってことなんだそうだ。

理解は出来る。

その上で、子どもたちかわいそうじゃないか?とも思う。

結果的に子どもたちはシンプルに駆けずり回って遊ぶって経験を出来ないってことなんだぞ?

バカみたいに走り回って笑いあって友達と関係を深め合うってのが出来ないんだぞ?

なに?そんなの近所の公園ですればいいだろって?
ねえんだよ。そんな広い公園。俺の家の回りには。

確かに住んでいる場所によっては、そういう環境もあるかもしれない。
でもさ、そういう環境に恵まれなかった子どもたちは、子どもたち同士のコミュニケーションってのをどうやって育めば良いんだ?

誰かの家に遊びにいって、友達と遊ぶって言っても、そこに親御さんがいないと遊びにいくこともままならない。
子どもたちだけで遊ぶってのは、なんかあったときに同じように「誰が責任をとるのか」ってことをお互いの親が意識しちゃうからね。

まあ、仮に近所にでかい公園があったとしても、なんかあったら「どっちが誘ったの?」みたいなやり取りも出てくるかもだからなぁ。

ううむ、実に出口がない。

でもなぁ。
俺たちがガキンチョの頃って、ガキ同士の取っ組み合いのケンカとか日常茶飯事だったじゃんか。

どうやって俺の親の世代はそれを許容することが出来ていたんだ?

俺の記憶だと「子どもの話ですから」の一言で終わってた気がする。

なあ、あんたはどう思う?

今の子どもたちに俺らが積んできた「コミュニケーション」の経験を積ませないでホントに良いんだろうか?

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