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自ら楽しむ価値

あんたは世の中にある実に様々な病気について考えることってあるかい?

アカデミー賞のセレモニーの中でのウィル・スミスさんの行動によって、初めて脱毛症ってものがワリカシ普通にある病気だってのを知ったヒトも多いと思う。

で、いつも通りネットをうろついていると、同じ病気にかかって、その症状を受け止めながら素晴らしい笑顔で日々を過ごしているヒトがいるってのが見つかったんだよね。

読んでみると、どうも高校生の時に発症して、ウィッグを使う生活になったそうなんだけれど、最初は恋人にそのことを告白できずにいたってことらしい。

今回は前向きになるってことについて考えてみる回だ。

ちっと、俺たちが前向きになるって状態について考えてみようぜ。

脱毛症という病気

ウィル・スミスさんの騒動を聞くまで、あんまり脱毛症という病気について
考える機会がなかったんだけれどさ、この病気は結構な頻度で起きる病気らしい。

比率的には1000人に1人の割合で起きる病気なんだそうだ。
学校に1人か2人はいる計算って感じだね。

そう思い返してみると、確かに髪の毛がないヒトを小学校で見かけた記憶がある。
そのときは「ああ、そういうヒトもいるんだね」くらいにしか思ってなかった気がするけれどね。

でも改めて自分事として考えてみるとその状態になったときの精神的ななにかってのは筆舌に尽くしがたいものがあるような気がする。
女性ならなおさらにね。

でも、考え直してみるとこの「精神的ななにか」ってのは何者なんだろう?

「美」という虚構

それが良いことなのか悪いことなのかってのはなんとも言えないけれど、一般的に女性は「美」という価値観について重要視する傾向があると思う。

これはおそらく歴史的に女性が生き延びてきた世界観によるものなのかなぁと漠然と思っているんだよね。
物理的な戦闘力を持っている男性の協力を得るための手段としての「美」。
それがいつしか、自分自身の価値ってものに結び付いている状態って感じ。

つまり「美」というのはヒトが社会に結び付くためのひとつの手段であり、同時に価値観だったってことだと思う。
そして、その価値観は今も普通に存在していると思う。

そう。「美」ってのは誰かと協力するための虚構そのものってわけだ。
物理的に定義できるものではないけれども、その価値が存在するとヒトが共有することで大きな力をもたらす虚構だ。

「美」を楽しむこと

その価値観についての重要性を肌で感じる機会が多いヒトにとって、その「美」の一部である髪が失われるってのはショックそのものだってのは想像に難くない。

当然、記事のハゲカノさんも大きなショックを発症当時に受けていたということのようだ。

でもいまの恋人と出会うことによって、脱毛症という「状態」を楽しむという精神性を手に入れることができたってことみたいなんだよね。
いや、すげぇな。

実際に、ウィッグを活用することでその日の気分に応じた髪型を楽しむことができるって彼女は思えたらしい。
さらにはその楽しみを世の中のヒトと共有したいって思って会社まで立ち上げたってんだから、実にすごい。半端ないよね。

髪という美を失ったと考えず、新たな美を手に入れたって感覚なのかもしれない。
これってさ。
物事をどうとらえていくかってことにたいして、もしかしたら俺たちは俺たちの意思を反映できるってことなのかもしれないって希望をもたらせてくれることだよな。

本質的にヒトという生き物は感情が発生することをコントロールできない。
怒るときは起こっちゃうし、泣くときは泣いちゃう。
でも、その感情に対して起こす行動については俺たちの意思を働かすことができる。
感情はどうあれ、怒ってないふりも泣いてないふりも俺たちは普通にできる。

で、そのふりをし続けていると、なぜかしら怒りも悲しみも感じていない状態になる。
これは感情と行動のギャップを自分の脳が補正するって理屈もあるらしい。

だとすればだよ。
俺たちは幸せに近づくために「楽しいふり」をし続ける価値があるってことだよな。

実際、ハゲカノさんは実に幸せそうだ。
もはや楽しい「ふり」じゃなく楽しいと感じているようにも見える。

これまでにあった辛い思いに縛られて不幸そうな顔つきをしているよりは、周囲のヒトの笑顔も増えると思う。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちの意思は俺たちを含めた周りのヒトを幸せにできると思うかい?

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