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モラルという感覚の継承

子どもに筋を通す。それが必要な瞬間ってやつにあんたも出くわしたことがあるかい?

俺たちオッサンともなれば、大人に筋を通す必要性ってのは毎日のように体験していることだと思うんだよ。

なんつっても、その筋を通す対象の大人はまた別の大人に筋を通す必要があるので、筋が通らないことを主張してしまうと、相手がまた別の大人に無理筋を通すことになっちまうからね。

ところが、子ども相手の筋ってのはちょっと意味合いが違う様になってくる。

今回は、子どもに筋を通す意味ってやつについて考えてみる回だ。

ちっと子どものことを一緒に考えてみようや。

大人に対する筋

まず、俺たちが日常でやっている大人に対する筋の通し方についてだ。

多くの仕事ではこの筋の通し方で、仕事がスムーズに行くかどうかが変わってくる。

例えば俺たちシステム屋では、受注と検収ってやつがついてまわる。

これこれこう言う状態になったらシステムが出来たって認めてもらって支払いしてくださいね~って約束で仕事を受注するんだけれども、お客様によっては、筋の通らないことを理由に「システムが出来たとは言えない」という主張をしてくることがある。

とあるシステムで10年前からおなじ仕組で動いていたんだけれども、お客様がした運用変更に対応しきれないことを理由に、そのシステムの全く関係ない場所を改修する仕事を検収してくれないとかね。

そう言う筋の通らないことを主張して、その検収を延伸したりする事が起きると、そのお客と通常の取引はできないって判断が会社としてなされてしまったりする。

結果として、そのお客様にはそのような検収リスクがあるという前提で次回以降の見積もりを出さざるを得なくなって、誰も幸せにならなくなる。

でも、大人の筋を通す必要性ってのは、こんなふうにわかりやすいんだよね。
なんつっても、影響をお金という結果で皆で共有できるからね。

子どもに対する筋

ところが、子どもに対する筋ってやつは、なんとも難しい要素がある。

例えば「食事を残してはイケナイ」ってしつけをしようとしたときに「なんで?」ってシンプルに疑問をぶつけられたときに、あんたならどうする?

フードロスの問題や、そもそも食事が命を頂いているって感覚が重要だって大人の感覚はあったとして、そのことを客観的に子どもにわかるように伝える必要性がその質問を受けた瞬間に生まれると思うんだよな。

ところが、そのフードロス問題にしても、命を頂くという感覚にしろ、俺たちはその問題をなんらかの数字で抑えているわけじゃない。
シンプルにモラルとして「食事を残してはイケナイ」って思っているだけなことが多いと思うんだ。

このモラルってやつは実のところ感覚でしかないので、客観的にそれが必要なことだという説明が難しい。
無理やり言語化することは出来るかもしれないが、その言葉を子どもに届くようにすることは至難の業だ。

それでも子どもたちは問うてくる。「なんで?」ってさ。

結果として「いいから食べなさい!」って言うことしか出来ないってのが大人の常ってやつだと思うんだよね。

本当はそれが正しいコミュニケーションではないことを知りつつ、俺たちは子どもに対して筋を通すってことを怠っているってのが現実なのかもしれないな。

モラルを振り返る

そこで考える。
なんで俺たちは子どもにモラルというジャンルで筋を通すことが出来ないんだろう?

自分の中のモラルがどこで出来上がってきたものなのかについて深く考えたことが無いからなんだよな。きっと。

人を傷つけてはいけません。
食事を残してはいけません。
困っているヒトは助けましょう。

そう言う価値観が何を持って自分の中に出来上がったのかってやつについて俺たちは改めて考えたことが無いのが普通だもんな。

一言で言ってしまえば、俺たちを育ててくれた親の姿がモラルの源泉ってことなんだろう。
そして、それは俺たちの親も同じこと。
つまり、モラルは脈々と続く感覚の継承ってことなのかもしれない。

だとしたら、子どもたちにはこう伝えることができるかもしれない。

「お父さんも、おじいちゃんも、ご先祖様も他の命を頂いてきたからこそ君が生まれたんだ。
だったら、君はご先祖様の分も感謝して食事をしないといけないと思わないか?」

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは俺たちのモラルを感覚のまま子どもたちに伝えていくのが良いことだと思うかい?

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