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Fuji-Ko ― ニューヨークのオペラ界を陰で支えた謎の「日本人」

注:この記事は筆者の妄想ではなく、この世にホントに存在した「日本人」のことです。

オペレッタ『ミカド』、オペラ『蝶々夫人』、私の研究対象であるメロドラマのThe Darling of the Godsなど、19世紀と20世紀初頭のトンデモ「日本」は私を微笑ましく仰天させてくれます。

オペラ『蝶々夫人』のミラノ・スカラ座初演のポスター。1904年。

今回、紹介するのはThe Darling of the Godsが一大ブームを起こしていた20世紀初頭に、アメリカとイギリスで活躍していた「日本人」パフォーマーのFuji-Koです。カバー写真で、どのようなお方であるかを既にご覧になったと思いますが、こちらでもご確認くださいませ。

Fuji-Ko。イギリスの週刊誌The Bystander 1906年6月27日号より。

違和感が否めない写真ではございますが、このFuji-Koの活躍が『ニューヨーク・タイムズ』、『ビルボード』、『ヴォーグ』のような現在も名高いメディアに報じられていたことが、筆者の調査で判明しました。

上に掲げた二葉の写真だけでお腹いっぱいになっていないことを願いつつ、こちらの人物が何者であったのかを説明してまいります。
(日本語の引用は全て筆者による和訳です。Fuji-Koの生涯を全体的に理解したい方は、「3.まとめ」をお読みくださると幸いです。)


1.経歴

1908年のニューヨーク・タイムズに載ったFuji-Koの写真。
Fuje-Koと綴りミスがあるのはご愛嬌。

謎だらけのパフォーマーFuji-Ko。その名は、複数の英字メディアの報道から、Lady of Wistarias(藤の花の貴婦人)を意味することが認められます。つまり、「藤子」ということです。(富士講との関連も考えた一方、「富士子」と筆者は考えましたが、この予想は外れました。)

確認できた資料の年代から、遅くとも1903年から活動していたことが分かりました。活躍の場はアメリカとイギリスでしたが、そのFuji-Koの面目躍如たるところは、自身の口によって詳しく語られています。

イングランドでのことです。ロンドンのクライテリオン劇場の公演と、上流社会の方々向けの催し物で、私は短い日本の劇、日本の歌、日本の舞踊を披露しました。日本の演劇界に通じていたように、イングランドとアメリカ双方のそれにも通じています。イングランド、アメリカの一座と芝居をした経験があります。代表的なものとしては『ミカド』です。そういう訳で、西洋の舞台の様式が分かるのです。それでも、日本の芸術観が素晴らしく思えますし、その考えからも離れずにいます。日本の芸術は、より繊細なものでもあります。

The New York Times May 10, 1908

上述のインタビューの内容を裏付けるように、前年の1907年に『ビルボード』がFuji-Koの『ミカド』における活躍を次のように報じています。

正真の日本人女優であるFuji-Ko氏はピッティ・シング役を務めた。低音が快いメゾソプラノの声の持ち主で、『ミカド』で歌った経験のある唯一の日本人である。

The Billboard June 1, 1907 (Vol. 19, Issue 22)

ピッティ・シングは、『ミカド』のヒロインであるヤムヤムの姉妹にあたる人物で、Fuji-Koはなかなかの大役を任されていたことになります。

『ミカド』初演時の1885年のポスター。
一番左の人物(Kate Forster)が演じているのがピッティ・シング。

さて、1905年のイギリスの新聞The Daily Mirrorに目をやると、Fuji-Koがロンドンのサボイ劇場でHara-Kiriという劇を上演していたと報じられています。

The Daily Mirror Oct. 6, 1905 (Page 11)

翌年1906年のイギリスの新聞は、The Love of a Geishaという一幕物の劇を上演するFuji-Koのことを報じます。その内容は同年7月4日のThe Tatlerの記事によると、「一般大衆向けに分かりやすく、涅槃の教えを具体的に示したもの」と説明されています。なお、同じ記事にはトンデモ「日本」界の先輩的作品と言えるThe Darling of the Godsのロンドン公演に助けの手を貸した牧野義雄が関わることが書かれています。

Fuji-Koは同じく1906年に、鍋島化け猫騒動を題材にしたThe Vampire Catという一幕物の劇をすでに書き上げています。この関連事項として、「これをアメリカで上演したい」との発言がメディアに取り上げられたということがあります。1908年、この劇は実際に上演されました。(同年11月22日のThe Salt Lake Heraldがその際のことを詳しく報じています。)

2.生い立ち

Fuji-Ko。イギリスの週刊誌The Sketch 1905年8月23日号より。

Fuji-Koの活躍を報じる記事の中には、彼女の本名らしき名前も載せるものも認められます。1904年7月28日の『ヴォーグ』が次のように報じています。

「ユメ・モヨー」――「夢模様」という意味の日本語――というのはFuji Ko氏(英名フローレンス・ヒースコート)による一幕物の東洋劇だ。この劇は、数ヶ所のサマーリゾートにて、フィリップ・ジャン・バーナードの支援を得た著者自身によって演じられた。

Vogue 1904-07-28: Vol 24 Iss 4

この『ヴォーグ』の記事が正確で、Fuji-Koが報道されるような「Japanese(日本人)」でなく欧米人であれば、フローレンス・ヒースコート(Florence Heathcote)が本名だと言えるでしょう。

生い立ちについては、一度ばかり上掲した『ニューヨーク・タイムズ』の記事が詳しいです。Fuji-Koは「父はイギリス人、母は日本人でした」と語ったうえで、このように自分のことを語っています。

「私が生まれた頃のイングランド人と日本人に、今のような交流はありませんでした。そのため、母がイングランド人の花嫁になると、その結婚は一家の名――傑出した一家でした――それに泥を塗るような行為に近いと、家族から思われました。イングランドの人たち側も日本人と結婚したその白人に対して同じ考えを持っていました。こうして、事態は想定通りに必ずしもいかないというわけになりました。

「母は私をまさしく日本人の娘のように育ててくれました――それは、母が亡くなるまで続きました。その後、イングランドに行くことになりました。そこの土を踏んだ私は、同地のいわば女学校らしきところに通いました――おかげで英語をすらすらと話せるのですが、そこに何も驚くようなことは無いでしょう。日本を離れて久しいです。今で13年になります――疲労困憊の私としては、もう一度、日本に戻りたいです。私が初めてアメリカに来たのは約8年前のことです。それからイングランドに戻り、再びこうしてアメリカにいるというわけです」

The New York Times May 10, 1908 

Fuji-Koの諸発言をそのまま受け入れるのであれば、日本に生まれた彼女は母の死後、イングランドとアメリカを行き来する生活を送っていたことになります。そのさなか、一度だけ日本に帰っているようです。この記事の時期から13年前となれば、計算すると、帰日は1895年の頃になります。また、インタビュー内容から判断すると、アメリカに初めて来たのは1900年前後だったということにもなります。

3.まとめ

Fuji-Ko。イギリスの雑誌The Tatler 1906年7月4日号より。

……というように現時点で分かったことをまとめましたが、いかがでしたでしょうか。

――と、記事を締めくくろうと思いました。が、幸いにも、音楽界と演劇界の名士録である1914年のWho's who in music and dramaに、Fuji-Koのすべてと言えるほどに、詳しいことが掲載されていたので、ここに紹介します。

FUJI-KO――ダンサー兼パントマイム役者

1883年4月15日の東京生まれで、両親は日本人とイギリス人。ロンドンで教育を受ける。著名なVampire Danceを創作し、これが初の作品で、数シーズンにわたって繰り返しアメリカで上演されて大きな成功を収めた。1903年、ニューヨークのウォルドルフ=アストリアにて、Spottiswood-Mackin伯爵夫人の手配した慈善興行でプロデビューを果たした。その後、1904年の1月まで、いくつもの社会貢献活動が続いた。同月、ロンドンに戻り、上流社会向けのショーに出演して成功を収める。その後、南アフリカの各地における巡業があった。ロンドンに戻ると、クライテリオン劇場にてThe White Chrysanthemumに出演し、日本ならではのものを披露した。ロンドンとニューヨークでは、一幕物の創作劇を上演した。著名なものとしては、YumemoyoとThe Love of a Geisha、The Screen Maiden、Vampireがある。Vampireは、The Vampire Cat of Nabeshimaの題で1908年11月19日にニューヨークのドイツ劇場で、大規模なオーケストラを伴ったグランドオペラ・パントマイムとして上演された。アメリカに戻るとすぐ、『ミカド』のリバイバル公演においてアボーン・オペラ・カンパニーによって主要キャストに抜擢された。それ以来、活躍の場を専ら内輪のショーや独演会に移し、アメリカの著名な婦人クラブに出演した。Vampireの上演に加え、日本的な視点から自然を捉えた舞踊によっても著しい成功を収めた。中でも、The Dance of Waves、The First Butterflies、The Fox Womanといったものがある。1911年から1912年まで、チャールズ・ウェイクフィールド・カドマンによる日本の一連の歌曲であるSayonaraを、パントマイムをまじえた朗読ミュージカルとして大々的に取り上げた。『蝶々夫人』の公演において、ヘンリー・ウィルソン・サヴェージ・カンパニーとメトロポリタン・オペラ・カンパニーの団員たちの指導にあたった。指導を受けた中で、著名な歌手としては蝶々さん役のジェラルディン・ファーラーとスズキ役のルイーズ・ホーマーがいる。創作ダンスも作り、雑誌に詩や物語をたびたび寄稿した。

Fuji-Ko女史は1912年12月5日、カナダのモントリオールにて亡くなった。

Who's who in music and drama

この名士録における出生の情報が正確であれば、Fuji-Koはわずか29歳で亡くなったことになります(死去の一報は、アメリカのコネチカット州の新聞The Norwich Bulletinにも載っています)。そして、Fuji-Koがイギリス人と日本人のハーフであったことも、確かなことだったと言えるでしょう。活動を始めた1903年(20歳の頃になります)は、ジャポニズム演劇のThe Darling of the Godsがアメリカとイギリスの両国でセンセーションを起こしている時期でもあったので、日本人の血を引く彼女にとっては、そのルーツを活かす好機だったでしょう。

しかし、日本が西洋の列強と肩を並べようとするなかで、欧米におけるジャポニズムのブームは衰退し、Fuji-Koもその波に巻き込まれて活動の幅を縮小せざるを得なくなったと推察されます。

歴史に埋もれた存在になったとはいえ、メトロポリタン・オペラ・カンパニーに対するFuji-Koの貢献が無ければ、現在も続く『蝶々夫人』の人気はネガティブに今と違う形になっていたか、続かなかったかもしれません。

1905年に撮影されたニューヨークのメトロポリタン歌劇場。

こちらの記事が『蝶々夫人』の研究をなさっている方や、ジャポニズムに関心のある方にとって何らかの形で参考になることを願いつつ、今度こそ締めくくらせていただきます。最後まで、本記事を読んでくださった方に深謝申し上げます。


Cover picture from The Tatler No. 262, July 4, 1906


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