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倒れさせたり立ち上がらせたりする人―世界で最初の Christmas (5)―

再び、イエスにかかわる預言の言葉を見ていきます。

羊飼いたちの興奮もさめやらない、誕生から8日目。赤ん坊イエスを、イスラエルのおきてに従ってエルサレムの神殿に連れ て行ったヨセフとマリアが出会ったのは、シメオンという年老いた人物でした。

彼は、イエスを見て、「わたしの目が今あなたの救いを見た」と言います。ヨセフとマリヤは、このように老人が言ったのを聞いて、不思議に思います。それでシメオンは言葉を続けて彼らを祝福します。それから、母マリヤに次のように言いました。

「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れ させたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしる しとして、定められています。――そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。
(ルカによる福音書2章から)

マリヤ自身も「剣で胸を刺し貫かれる」!? 

・・ようようの思いで生まれた赤ん坊イエスの、祝福のために神殿に行って祝福を受けたと思ったらすぐそのあとに耳に聞いた言葉が、これです。このとき、二人がどう思ったのか、何も記されていません。 

そのとき、後に何が起こるかなど、このイエスが十字架に貼り付けにされることなど、その十字架の下で自分が産んだ子を見上げることになるなど、知る由もありませんでした。


生まれて1週間の子どもの将来が、いったいどのような定めに ある、というのか。もともと、ヨセフにしても、マリヤにして も、特別な子どもを授かったという覚悟はあっただろうけれど、 このようなときに、心に突き刺さるような言葉が語られるとは、 思ってもみなかったでしょうね。

で、イエスが原因で多くの人が倒れたり立ち上がったり。反対を受けるしるしとなっている、というのはどういうこと?最後の、「多くの人の心にある思いが、現れるようになるため」のしるし、というのは? 

後日、いったいどういう人たちがイエスによって「倒れ」、ま た「立ち上がった」んでしょう? このシメオンによって語られた預言は、どのように成就したのか。福音書をずっと見ていくと、神に熱心、宗教熱心であるがゆえ に、かえってイエスに反感を抱くようになってしまった人々が登場してきます。それは狂信とか過激な信仰という訳でもなく、 社会通念上、むしろ尊敬を受けていた人たちだったみたいです。

「至高の神は、唯一の神。それを、人間が自分は神の子だなど  というのは、神を汚すにもはなはだしい!」

神の「子」という言葉は、彼らにとって神と等しいものという意味だったんですね。だから、激昂しちゃったわけです。そして、イエスを拒否した。彼らのそれまでの常識ではそうするのが当然だった、と 思えます。


ところが、神はその常識を超える、全く違った新しいことをこ こでしたんですね。それを受け止めるかどうか。それが分かれ 目だと言えます。

たとえば、使徒となったペテロ。

はじめは、イエスに対して、鼻で笑っているような態度をとっていたかもしれない人物。 弟のアンデレの方が先にイエスのことを知り、「ちょっと、ち ょっと、見てよ兄貴、俺はキリスト(救い主)に会ったんだ!」と真剣に言ってきたアンデレの紹介で、とりあえずイエスに会ったペテロだったけれど、それっきり。

次に会った時、イエスは漁師であったペテロの船を借りて、船 上から浜に集まっている群衆に対していろいろと教えます。それからペテロに、「さあ、漁に行こう」と持ちかけたのでした。 

実は、その前夜、ペテロたちは一晩中漁をして、全く収獲がなかったのです。しかも、イエスは大工。漁のことなら、自分のほうがよく知っている。そんないまさら漁に出たって、何もとれるわけはない、というのがペテロの腹にあったことでした。「でも、先生がそうおっしゃるんなら、行ってみましょ」と、出かけます。何にもないということがわかるだろう、って感じで。

ところがそこで、ものすごい大漁になってしまった。そして、イエスを侮っていた自分に気づき、非常に恐れてひれ伏すんですね。

「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。
 (ルカによる福音書5章から)

このペテロに対してイエスの語った言葉は、

「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。
 (ルカによる福音書5章から)

こうして、エルサレムからずっと北に離れた田舎、ガリラヤの湖畔で、ペテロはイエスによって立てられた使徒となったのでした。


倒れるか、立つか。自分は立っていると思い、自分は目が見えている、真理を知っている、と思っていた人たちは、倒れ、目が見えないものとなったのでした。けれども、自分は罪深いものだ、と思っていた人たちは、逆にイエスによって立たされたのです。

目に見えないから信じられない、ということはあるでしょうけ れど、目に見えるものとなったからこそ信じられない、という人もあったわけです。神が目に見えるものであるはずがない、という固定観念は、現実の中に働きかけてくる「神」の事実に目を閉ざさせるみたいです。


このように、シメオンによって語られた「預言」は、さまざまな人の上に成 就していきました。これは今なお、成就する預言として私たちにも語り続けているもののようです。

あと、不思議な言いまわしが、「反対を受けるしるし」。いっ たい、誰が反対を受けるの? イエス本人が反対を受けるだけ じゃなくて、他の誰が反対を受けるしるしになっている、というの? それって、クリスチャンたちがずうっとしばらく、社 会の反対を受け迫害を受けたことをさすわけ? このしるしは、 さらに「多くの人にある思いが、現れる」ためとも言われます。

ヒントは、マリヤ自身の胸も剣によって刺し貫かれる、という 挿入句かもしれません。何のことを言っているかといえば、イエスの磔刑のこ とでしょうね。十字架にかけられたイエス、わが子をその足元から見上げることになるマリヤ。


この、十字架の場面を見て、どう思うのでしょうか。冤罪で死んだのか。信者を集めすぎたイエスがねたみを受けたためなのか。自分を神の子とした 冒涜罪だったのか。それとも、「わたし」の罪を負って身代わりに刑罰を受けてくれたのか。

シメオンの預言は、「ある思い」とだけしか言っていません。あなたにはど のような思いがわきあがりますか?

なぜ、イエスが誕生したのか。そして、なぜわたしたちはこの イエスの誕生を祝うのか。パーティーに行く前に、あるいはパ ーティーのあとで、静かなひとときを過ごしてみてください。

よいクリスマスを!



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