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愛を信じられないのは、、、―ヨハネによる福音書―

信じることが大切で、何を信じるかはそれぞれでいいだろう、と思っていた。本当の神なんてそもそもいなくて、人がそれぞれに心に信じているだけなんだから、と。そんなことを考えていた自分は、それじゃあ、たとえば、親のことはどれだけ、どのように、信じていたんだろうか。

何をしても許してくれる、自分のことは信頼してくれている、と、信じていたんだろうか。だから、身勝手に何でも自分で決めて、勝手に行きたいところに行って、やりたいことをやっていたんだろうか。親は自分を愛してくれていると、信じていたんだろうか。

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親の忠告を、愛情のゆえの忠告だとちゃんと受け止めていたかというと、そうではなかった。ただのおせっかいだと思っていたし、過干渉だと嫌がっていた。そして、家から早く出たいと思うようになり、そして下宿生活を始めた。親の愛を、まったく信じていなかった。受け入れようとしていなかったのだ。

どうして信じなかったのだろうか。今になって聞く親の忠告は、数十年前の口調とまったく同じ。それでも、それをおせっかいだとかこごとだとかは思わずに、自分のことを気にしてくれているからだと受け止めることができるようになった。いったいに、孝行をしたいときには親はなし、ということわざがあるくらいだから、本当に親の気持ちが理解できるのは、それなりに自分が大人になってから、ということなのだろう。

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神の愛を信じるのは、それじゃあ、どうなんだろうか。そんなに自分を愛してくれている神がいる、ということを、どうやって信じられるんだろうか。神様っていうのは、それほどに自分を愛してくれているお方なんだということを、どうやって信じられるんだろうか。

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教会の人が、いろいろと自分に気を配ってくれて、いろいろと教えてくれて、挙句の果てにはいろいろと手伝ってくれて。それらをみな、ただのおせっかいだと突っぱねて、自分にかまってくれるな、と、拒否し続けることは、正しいことだったのか。そうじゃない。つまるところ、相手の愛を信じられなくて、受け入れられなくて、自分勝手に生きたかったから、ということに過ぎなかったのだ。

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「信じる」って、なんだろう。いったい、誰を本当に信じているのか。本当に信じていい人は、どれだけいるのか。そして、本当に信じていい神は、いるのか。それは、聖書の神なのか、そうではないのか。

ずっとボクに声をかけ続けてくれて、助けようと手を差し伸べてくれていた人がいたから、それでようやく、愛の神を少しずつ理解できるようになってきていたのだろう。あの人たちの真実な語りかけの中に、本当に、神様が語りかけてきていたのだろう。

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実に、神様は、ボクを愛してくださっていた。ボクを愛してくださっている。だからこそ、イエス・キリストを犠牲にしてまで、滅びないようにとしてくださった。それが聖書が伝える「福音」だったのだ。そして、最後には、それを伝えてくれた人たちの言葉を信じ、聖書の言葉を信じた。ボクは、信じる決心をしたのだった。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
(ヨハネによる福音書3章から)

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