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キリストの終末預言(9) 目をさましていなさい

マタイ24:42-51

見えていなかったのに見えてくる。目からうろこ、という経験があるものです。

それが、しばらくすると目が曇って来る、ということもまたあり得るのです。見えていたはずなのに、と。しかも、自分では見えているつもりでいる。。。そういう危険性があるということで、イエス・キリストは、「目をさましていなさい」と忠告しています。

グレゴリオ「覚醒者」

6~7世紀カトリック教会の教皇の名前で、「グレゴリオ聖歌」でも有名ですが、ギリシャ語の意味が「目をさましている」。名前の意味を込めて漢字にすると「覚醒者」となるでしょうか。今だったら、「グレゴリー」という名前かも。

目からうろこ、という言葉の故事は、最初キリスト教の迫害者だった使徒パウロの経験です。迫害のための旅の途上で、イエス・キリストの天からの啓示を見て、目が見えなくなってしまいます。その後、キリストの弟子の訪問を受け、「目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになった」のでした(使徒行伝9章)。

パウロは、イエスこそがユダヤ人をたぶらかす偽キリストだ、と、その追随者たちを捕縛することに息まいていたのですが、そのイエスは本当にキリストだったのだ、と分かった瞬間が訪れたのです。

いわば、心の目が開かれて新たなことが分かった、という、もう前のようには生きていくことができないターニングポイントです。パウロは、旧約聖書にしるされている「キリスト預言」がことごとくイエスを指示していることに気づかされたのでした。

それからの彼の聖書理解は最後までぶれることなく、神の恵みによって生かされている理解が人生すべての土台となりました。

イエス・キリストの弟子たちへの忠告は、そのように聖書の教えを純粋に受け止める心を濁らせないように、というものです。何よりも、神に仕える、と言いながらも、神に反する生き方に走ってしまうあやまちをさけなければなりません。パウロは、はじめ、イエスを偽キリストだと断定しつつクリスチャンを迫害することで、神に仕えているのだ、と確信していたのです。

いったい、パウロにとって、何が目からうろこな事柄だったのでしょう。

イエス・キリストの復活の事実です。

それが、十字架の意味づけをかえたのでした。パウロはこんな言葉を記しています。

しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
ローマ人への手紙5章8節

死んで終わったキリストではなく、復活したことでかえって永遠の命がよくわかるようになりました。そして、十字架の死の意味もまた深く考えさせられる事になりました。

それが、力づくで支配する神ではなく、自己犠牲による愛によって罪人を招いている神のこころの実現。この神を知って、それからどう生きていくか。天に引き上げられる日はいつなのかわからない、ということに覚醒させられたのですから、その日までの人生をこの神と共にどう生きるか、です。

そして、パウロだけではなく、キリストの死と復活の出来事を認めて神を知ることになった者たちも、皆、グレゴリオの一人となったのです。

出かけて行った主人が帰って来る時

それを、イエス・キリストは僕(しもべ)たちの譬で教えています。譬に出てくる登場人物は、主人、家のしもべたち、思慮深い忠実なしもべ、悪いしもべ。

しもべたちの中のある人物には食物を備えさせる働きが与えられています。食べ物というのは生きるためには必要不可欠で、いいかげんなことはできないはずのものです。食物をそなえるのが「しもべたち」の勤めのようです。

それをしもべ仲間にさせることを、時に応じて、思慮深く忠実に行うしもべは、さいわいだと言われています。

一方、主人の帰るのは遅いと思って、何が気に食わないのかしもべ仲間をたたきはじめます。しかも自分は酒飲み仲間と飲み食いに興じているのです。主人はそれを知って、「悪いしもべ」としてさばき、厳罰に処します。

話を聞くだけなら、そんなことは当然だろうと思ってしまいますが、でも、これは何を譬えているのでしょうか。

まず、しもべたちとは、目を覚ましていなさい、という教えが適用されるべき弟子たち、グレゴリオです。弟子たちに「食物」がそなえられているとは「キリストの言葉」でしょう。弟子たちが自分で食べる分はもちろんですが、さらに配り歩くべき言葉があることも忘れてはならないものです。また、弟子たちが互いに教え合う間柄であることも、忘れてはなりません。

キリストの言葉を自分の心として生きることが身についている「しもべ」たちには、主人が帰ってきたとき、つまり、キリストの再臨時には、その全財産を管理するようにゆだねられるさいわいがあるのです。

一方、同じしもべでも、しもべ仲間を打ちたたき、さらには酒飲み仲間と飲み食いに興じてしまっている者もいます。主人が帰ってくること、つまり、キリストの再臨を待ち望んでいる者とは思えない態度です。待ち望む気持ちも、それ以前にキリストの言葉に心を向けることもない人物。それでも、しもべの一群の中に存在し、しかも、しもべ仲間の中で采配を取る立場にもあるような人物なのに、です。

イザヤ書には、酒のゆえによろめき、幻を見るときに誤る宗教家の姿が描かれています。

エフライムの酔いどれの誇る冠と、
酒におぼれた者の肥えた谷のかしらにある
しぼみゆく花の美しい飾りは、わざわいだ。

しかし、これらもまた酒のゆえによろめき、
濃き酒のゆえによろける。
祭司と預言者とは濃き酒のゆえによろめき、
酒のゆえに心みだれ、
濃き酒のゆえによろける。
彼らは幻を見るときに誤り、
さばきを行うときにつまづく。
すべての食卓は吐いた物で満ち、清い所はない。
「彼はだれに知識を教えようとするのか。
だれにおとずれを説きあかそうとするのか。
乳をやめ、乳ぶさを離れた者にするのだろうか。
それは教訓に教訓、教訓に教訓、
規則に規則、規則に規則。
ここにも少し、そこにも少し教えるのだ」。
イザヤ書28章1、7-10節

宗教の規則を神の言葉と取り違え、規則を正しく行うことを神に生きることだと思い込む宗教家たちがここにあります。この章に、有名なキリスト預言も含まれています。

それゆえ、主なる神はこう言われる、
「見よ、わたしはシオンに
一つの石をすえて基とした。
これは試みを経た石、
堅くすえた尊い隅の石である。
『信ずる者はあわてることはない』。
イザヤ28章16節

この預言にすぐ続けて、災いの予告があります。

みなぎりあふれる災の過ぎるとき、
あなたがたはこれによって打ち倒される。
19それが過ぎるごとに、あなたがたを捕える。
それは朝な朝な過ぎ、
昼も夜も過ぎるからだ。
このおとずれを聞きわきまえることは、
全くの恐れである。
イザヤ28章18-19節

さらに、季節に応じた農作業を細かく指導する神の知恵について啓示されます。

24種をまくために耕す者は絶えず耕すだろうか。
彼は絶えずその地をひらき、
まぐわをもって土をならすだろうか。
25地のおもてを平らにしたならば、
いのんどをまき、クミンをまき、
小麦をうねに植え、大麦を定めた所に植え、
スペルト麦をその境に植えないだろうか。
26これは彼の神が正しく、
彼を導き教えられるからである。
イザヤ28章24-26節

この世の宗教の形に収まっていれば、キリストの弟子だと自分では思い、また回りもそうみなすことがあり得るのでしょう。「偽善者」と同じです。見せかけだけの弟子なのです。その結末は、主人からの厳罰。もし患難期にある人々であったら、携挙にあずからないままに取り残され、「彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりする」ことになるのです。

キリストの再臨は、決して単純な出来事ではありません。漸進的に少しずつあらわされる聖書の言葉を、原則的には文字通りに読み解くことで、描き出されていく世界の動きを見つめていきたいと願っています。自分は完全なグレゴリオになっているなどと言える人間は誰もいないでしょう。逆に、見せかけのグレゴリオに陥って、自分は覚醒していると思い込んでいるだけに陥らないように、謙虚に神の言葉を繰り返し読み続けることが大切でしょう。


マタイによる福音書24章42-51節

42だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。 43このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。 44だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。 45主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。 46主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。 47よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。 48もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、 49その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、 50その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、 51彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。


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