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はじロー(24)反逆者のために命を投げ出す王

はじめて読むローマ人への手紙5章6-8節

反逆者のために命を投げ出す王

クーデター反逆者は捕えられたら処刑される。為政者にとっては邪魔以外の何モノでもないでしょう。ところが世界の王キリストは、最大の反逆者でも変心して生きるようにと、逆に自ら最も悲惨な死に身を投じたのでした。

もちろん、キリストは死んでも復活することはわかっています。だとしても、永遠の死の苦しみを味わうことに変わりはありません。

もともと、人間に対して神が定めた「律法」は、それを行うなら生きる、と言われて与えられていました。神と共に生きるには、それなりのエチケットが必要でしょう。それを無視していては、共に、などは決して有り得ないことです。

律法の中心がモーセの十戒と呼ばれているものです。二つは安息日(家事を含む一切の仕事をしない休日)を守ることと父母を敬うことの教えで、あとの八つは罪の戒めの八面体のようなまとまり。第十戒は「あなたの隣人の家を欲してはならない。…すべてあなたの隣人のものを欲してはならない」

でも、傍若無人(傍若無神!)にも神を侮り、神への不信の思いで律法を無視する欲に支配される生き方に世界は流されてしまいます。たとえ厳罰があっても、欲から抜け出せない世界で、無力に陥っている。。。

。。などとすらも思ってもいなかった不敬虔な者のために、不敬虔な者の身代わりとして、キリストは死んでくれたのだ、とパウロは言っているようです。

愛の命綱は、いのちが失われることによって尊いいのちがあることを教えてくれるような性質のもの。神のいのちが失われて、信じ得る神のいのち、神の愛が明らかにされたのです。

神を信じることは、何の欠けもない本当の愛を信じるようなものです。

神の律法を正しく行っていることが、神を信じることではありません。正しさに到達できない私たちを愛してくれる神を知ることで、私たちは、神の正しさに心が向けられるし、神の御旨に従って神と共に歩みたいという願いを持つものとなるのです。

神の愛を知って愛に引き出され、神を愛して歩む時に、弱さから解放されるのでしょう。それが第二部の最後の3節で語られることになります。

ローマ人への手紙5章6‐8節

実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
(新改訳2017)


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