見出し画像

良い知らせーマルコによる福音書ー

キリスト教は、どうしても外国の宗教だ、と思ってしまっていた。「世界の宗教」という考えは、まったく心になかった。知識としてはあったはず。「世界三大宗教」、とかいって。

でも、自分の住んでいる日本は、ボクの頭の中ではなぜかその「世界」には含まれていなかったし、たぶん、「全世界」なんて概念は、ボクの中にはなかったのだ。

画像1


2000年前のガリラヤで活躍していた、というイエス。日本が東の果てにあるというのなら、ガリラヤは西の果てにあるようなものだ。

今、自分がもっているもの、知っているものに、固執してしまう。ものすごい「井の中の蛙」であるにもかかわらず、それにまったく気がつかないで、いかにも世界を知っているかのように思っていて、それで「世界宗教」は単なる「外国の一宗教」程度にしか考えなかった。

画像2

高慢の鼻がへし折られる経験をして、傷心を抱えて、上京することになって、ようやく聖書をまじめに読み出した。自分が世界の中心にいるような夢から、ようやく覚めたときだったのか。

画像3

もうひとつ。聖書を読み出してから、心の奥底に沈殿させて、閉じ込めていた、「罪」が、まるで、澄んでいたコップの中の水がかき混ぜられて、底にたまっていたものが湧き上がってきて全体を汚していったみたいに、表に出てきてしまったのだ。自分が偽善者だ、と、思い知ることになる。たまたま、好きな女の子がいて、なんだか、善人を装っているのが、どうにも無理になってきたような感じだった・・・

画像4

自分のうちにある汚れ、罪。それを、自分で消し去ることができるのだろうか。修行でどうにかなるのだろうか。苦行を自分に課したら、すこしは清くなるのだろうか。ちょうど、就職の時期。会社の研修が1週間、富士山の麓で行われた。朝一の5キロマラソン。中学の頃は、どこにも所属していないでぶらぶらしている連中を集めてただひたすら走るだけの「マラソン部」を教頭先生が始めていて、ボクもそれに入って、遊びながら走っていた。今度は、苦行のつもりで走ってみた。まあ、苦行というには程遠いものだったけれど、結果的に、心はぜんぜんすっきりすることはなかった。

画像5

「時」があるのだろう。「世界」の聖書の話を聞くようになってから数年、自分が中心の小さな世界でお山の大将を演じながら、キリストを拒否し続けてきたのだけれど、どうもそれではやっていけなくなってきていたのだ。心をあらためるかどうするか。キリストを信じるかどうするか。まるで、自分の前に一本の線が引かれてあって、その線のこちら側にい続けたら、いつまでも変わることがなく過ぎていってしまう。そんな気分だった。変わるためには、この線を越えなきゃ。

画像6

清水の舞台を飛び降りる気持ち、というのとは違うのかもしれないけれど、拒否し続けてきていたのをやめて、進んでみよう、と思った。そうして、初めて、教会の門をくぐってみたのだった。

誰にも心を明かさない、明かす必要はない、自分はそんな人間で、そんな風にしか生きていけない・・・ 凝り固まっていた心が、どうした弾みか、「神はすべてをご存知だ」という言葉に反応した。たぶん、何も信じられない、自分だけしか信じられない、と、精一杯突っ張って、それまでやってきていたのだ。

画像7

いろんなことがごちゃごちゃになって、沈殿していたのが、もやもやと湧き上がって、どうにも消し去ることができなくなってしまったとき、「信じなさい」という声を聞いたのだ。

良い知らせは、本当に、自分に近いところに、すでにやってきていたのだった。

イエスはガリラヤに行き、神の良い知らせを宣べ伝えて言われた、 「"時は満ちた、神の国は近づいた。"  心をあらためて、この良い知らせを信じなさい。」(マルコによる福音書1章から)

(写真は1999年アルバムから;当時のデジタルカメラでの撮影)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?