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神は世を愛して下さった。では私も?

 「愛」というのは、とても個人的な出来事です。他の人に代わってもらうことはできません。もちろん、代わってもらいたいとも思わないでしょう。

 旧約聖書の創世記に登場するレアはヤコブの第一夫人でしたが、彼女は夫から愛されているとは感じられませんでした。そして、愛されたいと努め、戦ったのです(創世記29:30-32)。彼女が追い求めていた「愛」とは、何だったのでしょうか。身体的なものではなく、精神的なものでした。6人の子供を産んでも、彼女は決して満足できなかったのですから(創世記30:20)。人間は、本当に愛の結びつきにおいて「一つとなること」を慕い求めるものなのでしょう。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16

 ヨハネ福音書3:16では、神はご自分の創造なさった「世」を真実に愛していると言っています。創造が終わったところで、神ご自身がすべて造られたものをご覧になり、「それは大変良かった」と語っているとおりです。もちろん、人間もそれに含まれています(創世記1:31)。

そこで、一つの疑問が生じるのです。「神は私を愛しているのだろうか」。ええ、たぶんそうなんでしょ? では、神は、「私」と一つとなることを慕い求めているのでしょうか。まさに、本当にそうなのです。インマヌエル(神我らと共にあり)と呼ばれる神なのですから(マタイ1:23)。

 「愛」は、「一つとなる」ことへの強い思慕です。でも、「他者を支配して一つとなる」ことではありません。むしろ、喜んで自己制約・自己犠牲するものです(出エジプト21:5,6)。キリストがこの世に来られるにあたって、まず、ご自身を無になさって自らに制約を課したのでした(ピリピ2:6-8)。そしてご自身の教会を愛している、というとき、「支配し、強制して」ではなく、逆に教会のためにご自身をささげられた、と言われています(エペソ5:25)。キリストは、自己犠牲を払って世に来られ、この世を愛し、ご自身に対して信じたうえで自発的に来る人を忍んで待っているのです。神がひとり子を賜ったのは、「キリストを信じる者」が皆、永遠の命を得るためでした。それが神と一つとなることなのです。

 神が、「私」と一つになることを慕い求めているのです。

 では、私は?この神の愛を受けたいと願っているのでしょうか。神と一つになることを願い求めているでしょうか。神の御旨と「私」の望みとは違っている、などということはないのか、神の御旨と「私」の将来への夢は違う、などということはないか、まさか「私」の欲求が「私」を支配していて神の御旨に反した生き方をしたいなどと思っていないだろうか。。。この「私」は本当に神と一つになりたいと心から願っているだろうか。いや、それ以前に、神が「私」と一つになると言って、いったい何をされるのか。この神は、本当に信頼できるものだろうか。

 実に、人間の罪とは、愛を示している真実な神を全く信じられずに、逆に、そんな心持でいるにもかかわらず、折々にただ困った時の神頼みと言っては神を利用しようとしていること。そして他のものをより愛していることだ、と聖書は言います。その罪の結果が「滅び」と言われるものなのです。罪の支払う報酬は死、神との永遠の断絶です(ローマ6:23)。神の愛を信じられず、拒否し、自分から神の愛を否定してしまった人間の末路です。

 この世の様々な問題は、人を愛せないことに起因します。その根本の問題が、神の愛にただし勲記あっていない、神の愛を拒絶しているからだ、と聖書は教えているのです。

 ここで「私」が最も必要としているのが「罪」を消し去ることだ、と自覚させられます。「私」の罪が贖われる必要があるのです。単に罪に対する刑罰が取り去られるだけではなく、「私」の内にある罪そのもの、神に反する生き方が変えられなければなりません。神の側からなしてくれた「私」の罪の贖いを信じて受け入れることで、神と一つになるスタート。「私」のためになされた御子の十字架の死を個人的に受け入れ、神の愛を受け入れることです。当然、強制によって愛が生じることはありません。「私」個人のために犠牲を払ってくれたことで現されたキリストの愛を知って、本当に愛されていることを信じる時に、「私」の内にも愛が生まれるのです。

 神への愛に答えて神と一つになる道があります。そして、完全な愛である神に従順なものとなるのです。自分中心の願いや夢を第一にするのではなく。切れない絆の基は、永遠無限の愛そのものであられる神、インマヌエル の神と愛の関係ですから。それは非常に良かった、と永遠に言える人生を築くものです。



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