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羊飼いへのしるし ― 世界で最初の Christmas(4) ―

クリスマスの登場人物で有名なのは、野の羊飼い。再び登場してもらいます。イエスはすでに誕生しています。

『さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番 をしていた。すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり 照したので、彼らは非常に恐れた。

御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大 きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あな たがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキ リストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉お けの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがた に与えられるしるしである」。

するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒に なって神をさんびして言った、「いと高きところでは、神に栄 光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和がある ように」。

御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、 ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見て こようではないか」と、互に語り合った。そして急いで行って、 マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあ てた。

彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知ら された事を、人々に伝えた。人々はみな、羊飼たちが話してく れたことを聞いて、不思議に思った。しかし、マリヤはこれら の事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。羊飼たち は、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであ ったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。』

(ルカによる福音書2章から)

ダビデ、ソロモンといった、超スーパーヒーロー的な王が治めていたイスラエル王国は、その後分裂し、隣国のいくつもの大 国に席巻されつづけ、今や、ローマ帝国のもとに支配される身となっていました。


イスラエルに神の言葉を語る預言者たちが見られなくなってす でに久しく、イスラエルの人々は、ただ、自分たちを解放して くれる王、預言されている約束の救い主の到来を待ち望んでい たのです。

野に住む羊飼いたちにとって、世の政権が誰の手にあるか、と いうことがどれほど興味の対象になっていたかはわかりません が、少なくとも、平和が成就されること、平和の王がいっさい の問題を解決してくれることを望み、その救い主の到来を心か ら願っていたことは確かだったでしょう。

政治が動き、軍が動くとき、野の片隅にあってじっと平和を待 ち焦がれるだけしか他に何もできない、地上で生きる事の辛酸 を味わい尽くしている人々。羊飼いたちは、その代表としてここに登場しているように思います。


イエスの誕生後、その知らせを真っ先に受けたのは、この羊飼いたちでした。この知らせを真実待ちわびていた人たちに、天使は現れます。神は、だれにまず慰めをもたらすべきかを御存知なんですね。

その羊飼いたちに「天に栄光、地に平和」と歌われた内容は、 天使たちの希望的観測だったでしょうかね。できることならそ のようになってほしい、という願いだったのでしょうか。それ とも、必ずそうなる、という宣言のようなものでしょうか。


思うに、言われたことがその通りになる、と信じた人にその通 りに成就する、ということだと思うんですね。だからここでは、「御心にかなう人々に…」といわれているわけです。そして、 羊飼いたちに伝えられたメッセージを彼らがどう受け止めて、 どう行動したか。

さて、ここで聖書に特徴的に現れるのが、「しるし」です。 「渋谷のハチ公前でシルクハットをかぶっている。それがわたしのしるしです。」その場に行ったら、何人も同じような人がいたら、それは「しるし」にはなりません。それと見分けられ るのが大事ですよね。羊飼いたちがイエスに出会うために教えられたしるしは、「飼い葉桶に寝かされていて、布にくるまっ ている赤ん坊」でした。ちいさな村で、いかにたくさんの人が 宿泊していてごった返していたとしても、その晩生まれた赤ん 坊で、飼い葉桶にいるのを見つけるまで、さほど時間はかから なかったでしょうね。


ここで肝心なことは、羊飼いたちは、これがしるしだと言われ たことを「信じた」点です。たとえそれが半信半疑だったとし ても、ともかく確かめに行った。そう行動を起こした、という ことです。それは、あたるも八卦あたらぬも八卦、という内容 のものではありませんでした。解釈の仕方ではまさにドンぴし ゃりになる、なんていうものでもなかったのです。平明な言葉 で言われたこと、そのことを、まさに彼らは探し出したわけで す。

一般に、宗教で現れ、使われる「しるし」は、しばしばとても抽象的な表現だったり、奇跡的な 出来事だったりします。けれども、ここでのしるしは、あまりにもさりげないものでした。さりげなさすぎて、世界の救い主の出来事としてはとても信じがたいようなものでした。けれど も、イエスは、普通の赤ん坊と同じように、この世に生まれたのです。さりげなくこの世にやってきたのでした。そして、そのことを知った羊飼いが、社会的には何の発言力も持っていな いような羊飼いが、最初に救い主の到来を人々に伝える役割を担う事になった、というのも、とても意味深いものを感じます。


経済的な不安が募る中で迎えようとしている今年のクリスマス。 わたしたちの生きているもといは、何でしょうか。生きている 目的はなんでしょうか。それを見失いそうになってしまう昨今 ですけれど、羊飼いに暖かいまなざしを向けて、天使をつかわ した神のメッセージを、このクリスマスストーリーに見出せた ら、幸いだと思います。

最後に…

クリスマスの物語は、救い主への望みを持っていた人々が創作したものでしょうか。そういう意見も確かにあります。人が真理を求め、達したところに従って人物像が描かれ、伝承となっていた物語がまとめられた、と言うものです。けれども、火のないところに煙はたたず、で、伝えられていたお話の元になったもの、しかも、多くの人が、それは確かに起こった事だった、 そういうことをわたしは見た、聞いた、という裏づけが得られ る「出来事」があった、とわたしは信じるのです。

その裏づけが得られず、不確かなものは、教会には受け入れられず、いわゆる「外典・偽典」とされ、聖書に含められなかったのでした。羊飼いたちがどの程度の地域で、自分たちの見たことを伝えたのかわかりませんが、これらの話が伝えられ、記録されて、ルカによってまとめられたのだと考えられます。


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