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はじロー(25) 神の怒りから救われる


 ローマ人への手紙5章9-11節


神の怒りから救われる

怒っている人と一緒にいるのがうれしい、、ということは、あんまりないでしょうね。危険な所に向かっていることに気づかせる時には、怒りのエネルギーも必要でしょうけれど、ずっとそのエネルギーに押されていては凹みます。

ローマ人への手紙の第二部。神の怒りが天から啓示されている、というところから始まっていました。

第二部の締めは、その怒りからの救いです。直前で、この上もない大きな愛が解かれていました。愛を受けながら、滅びにいたる怒りが下されるなどということは決してありません。

赦しのパラドックスがあります。一つは、愛する人を罪ゆえに極刑にしなければならないこと。もう一つは他人の罪のために罪のない者が身代わりに刑を受ける。情状酌量で極刑に値する者が完全に無罪にされる、ましてや罪のないものが身代わりになって、など、あってはならないと思えます。

赦しは、決して生易しいことではありません。受けた傷が大きいほど、赦しは難しい。

私のことで神が受けた心の傷はどんなものだったのだろう、と思い巡らせた結論は、キリストの死ほどの痛みだったのだろう、ということ。

それは、私自身を過大評価していることになるのでしょうか。それとも過小評価?

私が重要人物だから、どんなに大きな犠牲を払ってでも救わなければならない、というのではなく、愛のゆえに、というのですから、過大評価になりようがありません。

また逆に、全人類のための身代わりとして神の子が犠牲となったにならともかく、私一人の罪が神の子の命と引き換えにしなければならないほどに無限に大きな罪だったのか、と、私が無限の罪人であるように過小評価しているようでもあるのですが、「過小」などではなく事実そうなのだ、と。

私のことで、神がキリストの十字架上の死ほどの痛みを心に受けた、ということは、想像を絶することなのですが、多分そうしか言いようがないことなのです。

そして、それ以外に赦しの道はないのです。

私が初めて教会の日曜礼拝に参加した日、心のうちに秘めていた自分の罪責感を含めて、「神は全て知っている」というメッセージが語られたのでした。その場でキリストを信じました。自分でも思いがけないことに、嗚咽と共に涙があふれ、周りに人がいるのもかまわず、しばらく泣いてしまったのです。

悲しみと喜びが混ざった涙だったように思います。

怒りは取り除かれた。。。私のうちにある怒りも取り除かれたのです。

ここからが、本当のスタート。神の心がすっかりわかった、などと言えるものではありません。スタートラインに入ったばかり、というところ。

ローマ人への第三部が、パウロの本当に語りたい主題。義人は信仰によって生きる。キリストの贖いが、私の人生をどう変えてくれたのか。また、変え続けてくれるのか。神と共に歩む人生の始まりです。

ローマ人への手紙5章9‐11節

9,ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。
10,敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。
11,それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。
(新改訳2017)

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