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二つの希望 ― 世界で最初のChristmas(3) ―

今年も残すところ2週間余り。
来年に向けて、どんな希望を描くかな~

* * * * *

キリスト降誕に先だって、バプテストのヨハネの誕生物語がルカの福音書につづられています。ヨハネの年とった父親が、ザカリヤでした。その口から語られた預言。


父ザカリヤは聖霊に満たされ、預言して言った、
「主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。
 神はその民を顧みてこれをあがない、
 わたしたちのために救の角を
 僕ダビデの家にお立てになった。

 古くから、聖なる預言者たちの口によって
 お語りになったように、
 わたしたちを敵から、またすべてわたしたちを
 憎む者の手から、救い出すためである。

 こうして、神はわたしたちの父祖たちにあわれみをかけ、
 その聖なる契約、
 すなわち、父祖アブラハムにお立てになった
 誓いをおぼえて、
 わたしたちを敵の手から救い出し、
 生きている限り、きよく正しく、
 みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである。

(ルカによる福音書1章より)

預言の言葉はまだ続くのですが、一部だけ引用したこの個所に繰り返され強調されている事のひとつは、「たくさんの敵・憎む者からの救い」。それはだれ?

どうもそれは、「きよく正しく、みまえに恐れなく仕え」ることを妨げるようにする者のようですね。なんか、いまどき「きよく正しく、なんて…」と、明治時代の骨董品のような言葉に聞こえるかもしれないかも。大きな声で言うには、照れてしまう、というか、恥ずかしい、というか。それはすでに、「敵」の手中にはまってしまっている?

自分は一生懸命、きよく正しくしようと思っているのに、まわりからの誘惑がありすぎて、次々と問題が生じて、心が惑わされてしまって、落ち着いて、静まってやっていけない……問題は、まわりだけにあるんだろうか?それとも、惑わされやすい自分の心に、何か「問題」があるのだろうか?

平安を失っている、自分。よりどころを失っている、自分。それが、問題なんじゃないか。自分のうちに、よりどころがあるか。


希望について考えたかったんでした。何かを望むとき、なぜそれを望むようになったのか。ふたつ考えてみたんですけどね。ひとつは、自分自身の内にある望みそのもの。ひとつは、約束されたから望むようになったもの。

いろんなものを見聞きして、自分もそれが欲しいとか、そうなりたいとか、いろんな望みが心の中に生じるわけです。その願いがかなうように、しばしば祈るんですけどね。その祈りがかなえられるかどうかは、ぜんぜんわからない。かなったら、ラッキー。しかも、その祈り自体、自分の心の中に念じるというだけで、だれかに向かって願っているわけじゃないというのもしばしば。他によりどころがなく、自分のうちによりどころを求めているんだろうか…?その「自分」のうちに、望みがかなうよりどころって、あるものだろうか?


約束されて望むようになる物。「クリスマスになったら、プレゼントをあげるね」何かを見てほしくなったというだけじゃなくって、約束があって、それを期待するようになる。待ち望むようになる。それがかなえられるかどうかは、約束した人による。その人は、誠実か。必ず約束を実行する人か。

預言の中には、約束がある。約束があるから、望みがある。その望みは、かなえられるものなのだろうか。約束をした神は、誠実な神か。必ず約束を実行する神か。それとも、気まぐれな神か。どんな神なんだろうか、聖書の神は? 

そう、きよくなれ、正しくなれ、と命令しているのではない。しばしばうっとうしく感じる忠告の洪水が、聖書にあふれているのではない。そうじゃなくて、約束が満ち溢れている。

それが望みを引き出すのに、何が必要か、って言ったら、約束を信じる心。信じるからこそ、期待する。信じるからこそ、待ち望む。この望みのよりどころは、神ご自身だ。それは、ご自分の約束を、必ず実行する神。

そうじゃなかったら、信じるに値しないんじゃない?

「聖なる契約」があるんですね。神ご自身の「誓い」があるんです。それが、わたしたちのよりどころ。泡のように消えてしまうのではない、数千年の人類の歴史の中で書きとどめられ、確かめられ、人々が寄り頼んで来た神の 約束。そして、その結果に満足して喜んで、その神をほめたたえてきた人々の歩みの記録が、ここにあったのです。


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