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この世を愛して御子の命を与える神

神が愛している「この世」は神の「命」を全く失っている…かのような口ぶりです。この世には永遠の命、つまり神の命が与えられなければならないのですから。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16

インドネシアの市場で鶏肉や豚肉を買う場合、鶏はかごに入ってまだ生きているのをその場で処理してもらって買ってくることになります。豚はさすがにそこで屠殺ということはないですが、半分に切り開かれた胴体が横たわっているのを横目で見ながら、ほしい部位を言って買うこともあります。

ここにいると、食べるということは、単に有機物を体に取り入れるだけではなく、命をもらっているのだ、ということがひしひしと感じられます。命は、命によって養われるのです。石や砂は、食べても命の糧にはなりません。

イエス・キリストが「わたしは命のパンです」と言われた時、命を与えることを意味していました。ところが、もっとグロテスクな言葉で言いかえます。「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。

これを聞いた当時のユダヤ人は、人の肉を食べることを想像してしまいます。そんなわけのわからないことを言う者にはついていけない、と、多くの弟子たちが去ってしまったのでした。ついさっきまでは、イエスを王にまつり上げてイスラエルの独立を勝ち取ろう、などと思っていた人々です。

でも、最後までついていった弟子たちは、その言葉が本当であったことを知ることになります。イエス・キリストが与えようとしていたのは、永遠の命でした。私たちが永遠の命を得るためには、永遠の命を持っているものを「食べ」なければならなかったのです。

この世は、神の命を失った世界になってしまっていました。その中に、私たちは生まれてきます。生まれながらにして、私たちは神の命と無縁に生きることになってしまっていたのです。まずそれが、聖書が教えてくれていることです。

よく、聖書の神は血生臭い、という話を聞きます。イエス・キリストは十字架にかけられ、多くの使徒たちも殉教し、今どきだとまるで自爆テロ者と同じように見られてしまうかもしれません。大きく違うのは、自爆ではなく、捕らえられ、殺される、ということです。この世がイエス・キリストを憎み、十字架にかけて殺したのです。この世こそが、自ら血生臭いものです。その自分のニオイに気がついていないだけで。

そういう「この世」を愛する「神」が、本当にいるのでしょうか。鼻のきかない者とは違う、最も鋭い嗅覚を持っている「神」は、顔を背けてしまうのが本当ではないでしょうか。

最後まで従い続けた弟子たちも、イエス・キリストの捕縛の時点で逃げ去り、隠れ家に閉じこもってしまいます。弟子の筆頭だったペテロは人々に (しかも女性に!) 問いかけられ、尻込みして「イエスなんか知らない」と呪いの誓いまでしてしまいます。でもイエス・キリストは死人の中から復活し、そんな弟子たちのところに来たのでした。

キリストの十字架の死は、「この世」のために犠牲をいとわないほどに愛して、一つになりたいと希求している、神の愛の現れでした。それこそ、自分を愛している神を信じられないこの世のために、最も強烈な愛の証を実行したのです。友を助けるために命をもさし出す。それ以上に大きな愛は、ありません。

そもそも、ニコデモという宗教指導者が、暗闇をぬってイエス・キリストに会いに来たところで、この教えが語られています(ヨハネ福音書3章)。当時の神殿で行われたことに関して、ニコデモは恥じ入る思いを抱いてイエスのもとに来ていた可能性があります。ヨハネ福音書の第2章の記事で、イエスは神殿で売買をしている人を「わたしの父の家を商売の家とするな」と叫びながら追い出していたのです。世を良いものにするはずの宗教が、現実にはそうした力を持たず、商売道具にしてしまっていることを、ニコデモも認めざるを得なかったでしょう。

宗教も、この世の醜悪さに浸ってしまっていたのです。神の命を得させるどころの話ではありませんでした。そのニコデモも、突然の新しい命の話に、最初は戸惑ってついていけない様子だったほど。良識ある宗教家ですらもイエス・キリストの説く神の命を認知できない。それが「この世」だ、と、聖書は教えてくれます。

神は、この世を、愛してくださっているのです。永遠の神のひとり子イエス・キリストの命を捨ててまでして、この世の人々に永遠の命を与えたいと思うほどに。



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