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御子を賜った

神はこの世を愛してくださって、この世に神のひとり子を「賜った」、とあります。

原語は単純に「与える」という意味の言葉ですが、単純な言葉である分、様々なところで使用されているこの言葉は、文脈・状況に応じて日本語訳はいろいろな言い回しになっています。その一つが、「ささげる」。「犠牲をささげるため」(ルカ2:24)と訳されている言葉です。イエス・キリストは、神がこの世を愛した結果、犠牲としてささげられたのです。十字架での死が、それでした。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。     ヨハネ3章16節

聖書の教え、あるいはキリスト教は、血なまぐさいという印象。日本の宗教がそういう生臭さをすっかり排除し、また日常生活からも、死の臭いのするものをできる限りなくそうとしているのが習慣になっているところで、急に、血の話、いけにえの話になったら、それは心情的に受け入れられないものです。

実際、十字架というのは、今でこそアクセサリーにもなっていますが、2000年前は、ローマ帝国の重大な犯罪者に対する死刑で、人類の歴史上、もっとも残虐非道な刑罰だった、と言われるものです。

なぜ、イエス・キリストが殺されたのか。一般には、ユダヤ教指導者が多くの信者を集めたイエスをねたんでの暴挙で、ユダヤ教側が図った計略でイエスを捕らえ、ローマ権力に引き渡して裁判で無理やり死刑に持ち込ませたもの、と考えられています。でも、イエスは、強大な権力の前には何もできずに諦めて捕縛されるがまま、無謀な裁判の判決に無抵抗で従うだけ…、では、ありませんでした。ローマ裁判を司る総督ピラトに対して、こんな言葉をかけるているのを、ヨハネ福音書が記録しています。

「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい」。(ヨハネ19:11)

イエスの死を、人間どうしの権力争い、宗教間の権力争いの結果としか見ないのは、上から賜る権威に関して全く盲目だからだ、と、ヨハネは福音書に記しているかのようです。

全能の神は、ご自身の権威のもとに一切の出来事を統治しながら、イエス・キリストが十字架にかけられることを成就させたのでした。ユダヤ教宗教家のねたみ、イスカリオテのユダの裏切り、弟子たちの敗走、それ以前に、この時代に行われるローマ帝国の死刑が十字架であること、すべてを神は初めからご存じで、そして最終的な目的である、人間の罪の贖いを成し遂げるために、イエス・キリストを十字架にかけられたのです。どうしても十字架でなければなりませんでした。

旧約聖書の律法には、

「あなたの子どもをモレクにささげてはならない。またあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」(レビ18:21; 申命記12:31) 

という教えがあります。旧約時代の紀元前14世紀ころ、イスラエルが向かっていたカナン地方で行われていた宗教には、人間の子どもを犠牲にする儀式が行われていたのです(2列王3:26,27)。それを固く禁じる教えです。そして罪の赦しのために神が律法で定めた方法は、罪びとがそれぞれに手の届く動物、「牛」か「羊」か「はと」を犠牲にすることでした。命を表す血を流さないことには、罪の赦しがないからです(ヘブル9:22; レビ17:11)。

ところが、最終的に神がとった完全な救いのための贖いは、十字架上の「人の子」の犠牲によるものでした(ヨハネ3:14)。

新約聖書には、ユダヤ人の伝統的な石打の刑でクリスチャンを死刑に処したという記事があります。イエス・キリストは、なぜ石打ではなく、十字架だったのか。それは、やはり聖書の律法の教えの中に、

「木にかけられる者は、すべてのろわれる」(申命記21:23;ガラテヤ3:13)

とあるからです。十字架にかけられることは、ユダヤ人にとっては、神に呪われた者だというレッテルが張られることでした。ユダヤ教指導者側としては、イエスが神に呪われた者ということが世に示されたなら、その追随者たちは皆、散りぢりになるだろう、との思惑があったはずです。

そして、確かに、十字架は、その残虐非道さにおいて、神の呪いを表すのに十分な死刑でした。そして、神の目的は、キリストによって律法の呪いから、人間を贖いだすことだったのです。

キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。(ガラテヤ3:13)

つまり、十字架が表しているのは、神が、聖書の教えの基準、律法の教えの標準にはるか遠い人間の罪の性質、罪そのものを、呪うほどに憎んでいることなのです。神がこの世を愛して、そのひとり子を賜ったのでしたが、そこには、神が罪を憎んだからこそ、そのひとり子を犠牲としてささげるに至ったのだ、ということがあったのです。

それは、御子を信じるものが一人も滅びないため、でした。罪があるままでは、神の呪いの中で、罪の中に滅んでしまう。神に対して盲目なままでは、危機感がないままに、その道を歩み続けてしまうかもしれないのですが、それを阻むように、十字架にかけられたキリストが、聖書に明らかに描き出されているのです。神の愛とのろいが、同時に描き出されている十字架です。

聖書が血なまぐさい、キリストの十字架のような、血そのものを前面に出すような教えはひどい、と批判する前に、イエス・キリストのもう一つの言葉を見て、人間の罪のひどさ、深さを、今一度、自省する機会を持つものになりたいと思います。

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