見出し画像

キリストの愛の口約束

愛の口約束。そこに「永遠の愛の」とすると、今どきこれ以上に信じられない、ありえないものになってしまうでしょうか。行動が伴わない、それこそ単なる「口だけ」の約束なら、確かにそうです。

永遠の神の、永遠の愛の、口約束。なぜ「口約束」かといえば、キリスト本人がサインをした「契約書」、本人が書きとどめた「書物」がないからです。結婚の誓い、あるいは「キリストの教え」のような自筆の本はありません。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ福音書3章16節

弟子たちが記録したキリストの言葉

新約聖書は全て、キリストの言葉を聞いた人たちの記録です。口伝えに聞いたことを、彼らの記憶に頼って書き留められたものですから、出典原典は、「口」。それが、どこまで信じられるだろうか、という話です。逆に、キリストの言葉を間近に聞いた人たちは、なぜその言葉を信じられたのだろう、と、そこを突っ込んでみたいと思わせられるのです。

ヨハネ福音書は、バプテスマのヨハネにまず弟子入りしていた使徒ヨハネが、自分が見聞きしたイエス・キリストの教えや働きを、詳細に渡って記憶し、それを特定なエピソードに絞って書き綴ったものです。「二人の弟子」(ヨハネ1:35)と書かれているその一人が、ヨハネだと考えられます。

3章の、ニコデモという宗教指導者へのイエスの教えを、脇にいて一言も聞き漏らさないように聞いているヨハネの姿が目に浮かびます。その時点では、神がどれほどにこの世を愛されたのか、ひとり子を賜ることが何を意味していたのか、わけもわからないままにただ聞いていたはずです。

そして、最後の晩餐と呼ばれる席上で、イエス・キリストが次のように語ります。数時間後には捕縛され、そのまま翌朝には十字架刑になる、という時の教えです。

わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。(ヨハネ福音書13章34節)

あなたがたを愛している、と、キリストははっきりと彼らに語ったのでした。おそらく、彼らは常日頃のイエス・キリストの態度、教えから、ある程度は感じ取っていたことでしょう。でも、真意を知るのは、三日後のことになります。

口先だけではない真実な愛

愛している、という言葉は、心地よい響きはあるのですが、私たちは、口先だけではなく、実行を伴って経験されて初めて、それが真実だと信じることができます。ヨハネが別の手紙の中で書いているとおりです。

子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。(ヨハネの第一の手紙 3:18)

この前提にあるのが、次のことです。

主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。(ヨハネの第一の手紙 3:16)

ここで「真実」だというのは、口先だけではなく、実行に移して実現される愛であったことを意味します。ヨハネが、このような手紙を書き送るに至ったのは、イエス・キリストの愛の言葉が、本当に実行に移されたことを自ら体験したからでした。

最期の晩餐の時に、イエス・キリストが語った言葉を、ヨハネは詳細に記しています。その中の一言。

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。 14あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。(ヨハネ15:13-15)

「友」と呼ばれた弟子たちのために命を捨てたのがイエス・キリストだったのだ、と、ヨハネは悟ったのです。自分のためだったのだ、と。この最後の晩餐から三日後、復活して弟子たちの目の前に現れたイエスは、その手に釘の跡が生々しく残っている体での復活でした(ヨハネ20:27)。その傷、その死は、今この時に生きて働いてくださっている神を信じないで自分の考えに固執している人間の罪のためだったのです。

弟子として従い続けたヨハネ

3年半に渡るイエス・キリストの活動の最初から最後まで、すべてを見聞きしていたのが、ヨハネです。十字架にかけられたイエス・キリストの、十字架の足元にいた弟子は、ヨハネただ一人でした。おそらく、まだ年少者で責任を追求されることもなかったため、十字架の場にいても咎められることなく、そこにいられたからだったかもしれません。

それで、他の福音書にも記されている十字架のキリストを、ヨハネだけが最期まで見ていたのです。「彼らをゆるしてください」との祈りの声を聞き、「あなたは今日一緒にパラダイスにいる」と隣の罪びとに語る言葉を聞き(ルカ23:39-43)、母マリヤを大切にして自分にゆだね(ヨハネ19:25-27)、多くの人に罵られ、十字架上で苦しみながら「なぜ神が自分を見捨てるのか」という叫びを聞き(マタイ27:46)、「わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)、「わたしはかわく」「すべてが終った」(ヨハネ19:28-30)と言って死んだのを、すべて聞いていたのです。

それから三日目、弟子たちは、イエスの遺体が葬られた墓を見に行ったマグダラのマリアの話を聞きます。墓が空っぽだ、と。一緒に隠れ家にいた弟子たちのうち、ペテロとヨハネが、すぐさま駆け出して墓に行きます。後から走り出したヨハネは、途中でペテロを追い抜いて先に墓につくのですが、中に入る勇気がなかったのか、その洞窟の中を覗き込むだけで外にとどまっているうちに、ペテロが先に入ります。ヨハネはここで、「これを見て信じた」と記しています(ヨハネ20:1-10)。何をどう信じたのでしょうか。

少なくとも、マリヤが「墓は空っぽだった」と伝えたその言葉を信じたのでしょう。一方、ほかの弟子たちは、「愚かな話のように思われて、それを信じなかった」(ルカ24:11)。弱い女たちの口からの出まかせ、としか思えなかったのです。彼らは誰一人として、「死人のうちからイエスがよみがえるべきことを記した聖句を、まだ悟っていなかった」(ヨハネ20:9)のです。彼らの目からうろこの経験は、実際に、イエス・キリストを見たときのものでした。

多くの人を癒し、また死んだ人さえも生き返らせることができたイエスを知っていたはずの弟子たちでも、イエス本人が死んでしまってはどうにもならない、と思い込んでしまいます。なぜ、そうなってしまうのでしょうか。最後の最後まで、彼らはイエスが特別な人間だとは思っていたのです。でも人間は人間、としか考えられなかったのでしょう。神が特別な力を与えてくれている、特殊な人間として、神の子、と呼ばれるにふさわしい人。それが彼らの理解の限界でした。

弟子として最初から最後まで聞いていたイエス・キリストの言葉を、ヨハネも全く真実だと悟ったのは、復活のイエス・キリストに会ってからだったと思われます。たんなる口先だけの言葉などではない、しかも、ニコデモへの教えにあった「永遠の命」を得させることができると、そこではじめて心の底から信じただろうと思います。

そして、1世紀が終わろうとするときまで、ヨハネは天のイエス・キリストに従い続けます。永遠の命を今この時に受けて神と共に歩んでいる者として、また、ヨハネの黙示録にあるとおりにキリストが再臨して、新しい神の国が地上に出来上がる時の栄光を待ち望みつつ。

愛の口約束。それが心から信じられる相手とは、どんな人でしょうか。友のために命をも捨てる、と語ったその通りに、友の救いのために自ら十字架を選んだ方こそ、ヨハネの信じられる人でした。わたしたちもまた、キリストの口から出る一つ一つの言葉を心から信頼しつつ、キリストと共に生きていきたいものです。(マタイ4:4)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?