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神のひとり子を信じる

新約聖書の時代、イエス・キリストが生まれて活躍したのはユダヤ人地域。十字架にかけられた時には、「ユダヤ人の王」と書かれた板が十字架に打ち付けられていました。もともと、ユダヤ人が「神のひとり子を信じる」とは、どういうことだったのでしょうか。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3章16節

A.「あの」ダビデの子

新約聖書を開くと最初に目に入るのは、「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」。ほぼ1ページにわたって、旧約聖書に登場する紀元前2000年ころの人物アブラハムから始まって、イエスに至る子孫の名前がつづられます。福音書の中でもしばしば「ダビデの子」と呼ばれているイエス・キリストですが、単に何万人いるかもしれないダビデ王の子孫のひとり、と言うだけではなく、ユダヤ人にとっては特別な「あの」ダビデの子なのです。

ダビデ王は古代イスラエル王国のキーマンでした。紀元前1000年頃、周辺諸国を制圧し完全な独立国家を初めて樹立したイスラエルの王です。そして神殿建築の計画を立てます。その時に神がダビデに次の言葉を語ります。

『万軍の主はこう仰せられる。わたしはあなたを牧場から、羊に従っている所から取って、わたしの民イスラエルの君とし、 9あなたがどこへ行くにも、あなたと共におり、あなたのすべての敵をあなたの前から断ち去った。わたしはまた地上の大いなる者の名のような大いなる名をあなたに得させよう。 10そしてわたしの民イスラエルのために一つの所を定めて、彼らを植えつけ、彼らを自分の所に住ませ、重ねて動くことのないようにするであろう。 11また前のように、わたしがわたしの民イスラエルの上にさばきづかさを立てた日からこのかたのように、悪人が重ねてこれを悩ますことはない。わたしはあなたのもろもろの敵を打ち退けて、あなたに安息を与えるであろう。主はまた「あなたのために家を造る」と仰せられる。 12あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。 13彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。 14わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。もし彼が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす。 15しかしわたしはわたしのいつくしみを、わたしがあなたの前から除いたサウルから取り去ったように、彼からは取り去らない。 16あなたの家と王国はわたしの前に長く保つであろう。あなたの位は長く堅うせられる』(サムエル記下7章8‐16節)

ここに、ダビデの子孫に関する預言があります。ダビデ王国は「堅く」「長く」続く王位、つまり永遠の王位を授けられる「子」に統治される、と。「わたし」とは万軍の主、全被造物を統治する神です。この「子」こそが、「あのダビデの子」でした。そして、「わたしの子となる」とあるように、「神の子」とも呼ばれる人物です。

イスラエル、ユダヤ人は、このダビデの子孫の登場を悲痛な思いを込めながら待ち望んでいました。バビロン捕囚以来、自分の王国を失い、紀元1世紀には異邦人国家ローマ帝国の支配下に置かれていたユダヤ人たちは、ダビデ王国の再来を夢見ていたのです。周辺諸国を制定してイスラエル独立国家を再び樹立してくれるのが、「あのダビデの子」でした。「キリスト」は、ユダヤ人の「王」の称号です。

ではキリストは、私たちにとっても、へりくだって仕えるべき王なのでしょうか。

B.イエスは「あのダビデの子」

イエスをあのダビデの子と信じることは、ユダヤ人にとって実はそう簡単なことではありませんでした。

イエスが育ったのは、ナザレというイスラエルの北部地方で、中心都市エルサレムからは遠く離れた田舎でした。旧約聖書には一度もその名が記されることのない、全く無名の村。「ナザレ人」というのは、田舎者に対する蔑称でした。それをよく表すエピソードが紹介されています。

43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされたが、ピリポに出会って言われた、「わたしに従ってきなさい」。 44 ピリポは、アンデレとペテロとの町ベツサイダの人であった。 45 このピリポがナタナエルに出会って言った、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」。 46 ナタナエルは彼に言った、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」。ピリポは彼に言った、「きて見なさい」。 (ヨハネによる福音書1章43~46節)

真摯に神の義を求めていたナタナエルにイエスが紹介されたとき、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」と返事をします。「あのダビデの子」がナザレ出身者のはずはない、と考えていたからです。

でもその後、さまざまな「しるし」がイエスによって行われます。ユダヤ人がこれこそ長い間待ち望んでいた、預言されていた「あのダビデの子」と信じられるだけのしるしがありました。そしてイエスは、そのすべてを民衆の面前で行ったのです。奇跡は、単に特別な力を発揮し、見せつけて力で人をねじ伏せるように信じさせ、従わせるというものではありません。「あのダビデの子」としてふさわしいとユダヤ人が認めるしるしでなければ意味がなかったのです。

ユダヤ民衆にとって、イエスの生れはこの際、どうでもよくなりました。「しるし」が大切です。その奇跡的な力で、異邦人支配者ローマ人をこの地から追い出して、ダビデ王国を再興してほしい。自由にしてほしい。その期待を込めて、人々は、イエスがあのダビデの子、神に愛された特別な子である「神の子」だと信じたのでした。そして、イエスが王位につくとき、今の世は終わって、至福の神の国の時代が始まる、と考えていたのです。地上の天国の成就です。弟子の筆頭ペテロは、こう告白しています。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)。

ただ、ここで一つ問題が生じます。イエスの生れ、その人となりには関心を持たず、力にだけ心が向いてしまったことです。利用できる者は利用する、というだけの関係に陥る時、イエス・キリストとの正しい関係を築くことができるのでしょうか。

そして、私たちにとって、イエスが私たちの汚れを清め、神の言葉に聞き従う耳を開き、神の真理を見る目を開いてくれるキリストでしょうか。困ったときの神頼みが気安くできる、ただその力を利用するだけの関係?そうではなく、個人的な心の結びつきに気持ちを向けているでしょうか。

C.人の思いをはるかに超える「あのダビデの子」

イエスの12人の弟子たちは、誰よりもそのことを強く信じて、「わたしについてきなさい」という招きの言葉に応じて従い続け、しるしとしての奇跡を間近に見続け、天国の教えを聞き続けた人々でした。ところが、彼らが全く困惑する教えがなされます。

この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。(マタイ16:21)

キリストは死なない、永遠の王となるかただ、と信じていた弟子たちには、ショッキングな教えでした。

長老、祭司長、律法学者、とここで呼ばれているユダヤ教指導者たちは、聖書の他にユダヤ人に伝えられる伝統的な教え、規則をことごとく破っているように見えるイエスが、神の子などではありえない、と断定していました。「ナザレ」だけがユダヤ人にとって問題なのではなかったのです。数百年の伝統に裏付けられている民族一致のための宗教が、最大の反対者となったのです。指導者たちは、イエスを迎え入れている民衆を、数々の規定に関して無知のゆえにただ空騒ぎをしている烏合の衆だと見下していました。

宗教的権威が伝統の上に築き上げられていく時、それが真理からそれていてもなかなか修正が聞かなくなってしまう、と言う顕著な例です。そして宗教家たちは、イエスがユダヤ民衆をだまして民族を分裂させる偽キリストだ、と断罪し、死刑にしてしまうのです。

イエスの本当の人となりとは、何だったのでしょうか。本当に「あのダビデの子」であって、伝統に粉飾された形骸的な宗教を終息させ、人間の罪によって分断されたこの世を一つにする王であったからこそ、その人間の一切の罪を負って十字架で犠牲になったのです。そして三日目によみがえることによって、確かに力あるあのダビデの子であることを立証したのでした。神のひとり子だけが成し遂げることができることだったのです。

イエスの言葉通り、イエスは捕らえられ、死刑にされます。しかも、ユダヤ人の伝統にのっとった石打の刑ではなく、ローマの官憲に引き渡され、ローマの極刑である十字架刑にされてしまうのです。それは、呪われた者としてユダヤ人の目に強く印象付けられる姿でした。木にかけられたのは神に呪われた者なのです。(申命記21:23)

弟子たちは困惑の極みを体験します。十字架にかけられる直前、最後の晩餐でパンを食べ、杯から飲んだのは、キリストの体が引き裂かれ血が流されることを象徴するものと弟子たちは聞かされます。罪の赦しのためだ、とキリストは明言します(マタイ26:26-28)。でもまだその真意は彼等にはわからないままです。ペテロに至っては、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」と啖呵を切ったその数時間後に、キリストが裁判の席に引き出されている同じ時に、「そんな人は知らない」と誓って言ってしまいます(マタイ26:33-35,69-75)。イエスに予告された通りでした。

結局彼らが真にイエス・キリストを理解したのは、十字架で死んだキリストが復活してからです。絶望から永遠の命への希望に心が向けられて、これまでの教えの全貌を理解し始めたのでした。何より、イエス・キリストは、である方が人間の姿になられた「神の子」であることを初めて悟ったのです。

新約聖書ローマ人への手紙で主にユダヤ人の問題について使徒パウロが論じている部分、9-11章の中で、次のように記しています。

すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。(10:9)

ユダヤ人にとって「主」とは、むやみに口にしてはいけない至高の神YHWHのことです。心からへりくだって信頼し、従うべき方が主でした。イエスがその主であることを心から告白すること。そのイエスを、父なる神が十字架にかけて呪われた者とし、それから死人の中からよみがえらされて、救いの祝福の基としたのです。キリストは、世界の創造主である神そのお方なのです。それを使徒ヨハネは「神のひとり子」と呼びました。

人の姿をしている神。神に呪われる主。ユダヤ人にとって最もありえない、最も信じがたいことを、ユダヤ人社会のただ中で、全世界の罪人が滅びないで永遠の命を得るようになしてくださった奇跡。それを伝えているのが福音、聖書の喜ばしい知らせなのです。



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