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自分の居場所が天国になる

マタイ5:4 ~自分の居場所を喜ぶ~ 

自分の居場所がなくて放浪しなければならない、って、、、

「ヨソモノ」がその地に溶け込むまで10年はかかるかもしれません。もしかしたら、いつまでたってもそうならないかも、と考えたら、どうやって生きていけるのでしょうか。

海外で暮らしていると、けっこう身につまされる状況です。

悲しんでいる人たちは、
さいわいである、彼らは
慰められるであろう。 

他民族に支配されている者への約束の言葉

今から二千年前、イエス・キリストが山上の説教をしたとき、ユダヤ人は自分たちの国を失って六百年が経過していました。自分の居場所がない悲しさの中にあるユダヤの人々に向かって語られたのが、この言葉でした。

ののしられ、追い立てられる日常を過ごす人が、いったいどういう慰めを得るというのでしょうか。死に瀕している人に対して何か慰めの言葉をかけることができるでしょうか。もしイエス・キリストが、国に対し、命に対して力を持っていなかったとしたら、冒頭の「慰められるだろう」という言葉は気休めにしかすぎません。

約束の言葉が、本当にそうなると期待できるか、できないかは、語る人によります。この人が語ったことなら期待できる!とわかっていたら、安心していられます。当時のユダヤの人々は、そのようにイエス・キリストの約束の言葉を、期待し、安心して聞いていたのでした。

なぜなら、イエス・キリスト自身が、彼らにとって約束された人だったからです。紀元前二千年から、イスラエルの子孫のために、地上に天国を建てあげる王が来る、という預言があるからです。しかも、イエス・キリスト当時のユダヤ人は国を失っていた状態だったので、期待は最高潮に高まっていたところでした。そこに、いくつもの預言にぴったり合った人物が到来し、ともかくも自分たちと一緒にいてくれるのです。みんなは「これだ、この言葉だ」と聞き入っていたのです。

約束の確かさ

でも、この時から三年後には、イエス・キリストは十字架にかけられ、殺されてしまいます。期待が大きかっただけに、失望と悲しみは、はかり知れないものだったでしょう。

もっとも悲しんだ人は、イエス・キリストの母マリヤだったと思います。自分の子が十字架の苦しみを受けて死んでいくのを、どんな思いで見ていたのか。

ところが、三日目の日曜日、イエス・キリストは復活します。

弟子たちは復活の約束をイエス・キリストから聞いて知っていたはずなのに、だれも信じることができず、期待もしていなかった三日目。キリストは弟子たちに現れます。

弟子たちは、人間が作った伝承を信仰と取り違えて、的外れな救い主のイメージを作り上げてしまっていたのでした。イエス・キリストは、聖書の本来の預言の通り、十字架ですべての人の罪の贖いを成し遂げ、死の悲しみさえもいっきに吹き払ってくれたのです。すべての人が神と和解し、共にいることができるように。

神が共にいる。そこが天国になったのです。その約束を、復活が確証してくれたのでした。

「親の心、子知らず」

私は神の心をちゃんと知ろうとしないままに、自分の勝手な考えで神のイメージを思い描いていたんだ、とつくづく思います。宗教というものを胡散臭いとあたまから決めてかかって、自分だけしか信じられるものはない、と肩ひじ張って歩んでいたものでした。親の勧めを無視したり、他人を悲しませる結果になっていることにも気づかずに。

それが、私の罪でした。

でも、そんな時に、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ福音書11章28節) という呼びかけを聞いたのです。

天国は、私の居場所として、イエス・キリストが門を開いてくれたのでした。キリスト教会の会堂にいるかどうかが問題なのではありません。今いるところが、キリストが共にいてくれる天国になったのです。

悲しんでいても、現実の歴史の中に神が働きかけ、慰めてくださるところが、キリストの天国。その中に、心から喜べる永遠の居場所があるのです。歴史を通じて約束してくださっている神に心を向け、慰めを与えてくれる復活の力ある神だと個人的に信頼して、安心して。

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