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キリストの終末預言(5) 大迫害者が来てしまったら

マタイ24章15‐22節

聖書の中で預言と言われる箇所を、どう読んだらいいのか。未来の出来事を本当に教えてくれるのか。

ユダヤ人にとって、基本は「モーセの律法」にある預言だったはずです。祝福と呪いの預言が、実際にバビロン捕囚として実現した。でも、今はそれすらも事実というより神話としている流れが主流。もし神話にしてしまうんだったら、神とイエス・キリストもまた神話の中にしかいなくなりそう。

でも、約束を守る遺伝子は、神から来ていると思うんだけれど。あ、これは比喩的表現です。。。

ダニエルとマタイ

預言は、歴史の脈絡が連綿とあって、どのような歴史背景のもとで神が下さった預言なのかを知ると預言そのものの意義が明確に浮かび上がってくるものです。

しかも、先の預言が後の預言でより詳細に語られることが頻繁に起こります。関連した預言のはしごがとても大切。キリストの預言も、それ以前にすでに明らかにされていた預言を、より明確にしている一面があります。

たとえば、キリストの誕生。やがて女から生まれるキリスト、という預言があり、それがベツレヘムで、という預言があります。ベツレヘムで生まれることに言及しているのは旧約聖書の中の一か所だけですが、それが唐突に現れたわけではありませんでした。千年一日のように、記録がなされ、伝えられ、期待を受け継いできているものです。

その中心にあるのが、唯一の人格性ある神。歴史の初めからぶれることなくご自身の計画を遂行しようとしている神が、人間に語りかけている事を信じるか信じないかしかないわけです。

信じるときに、聖書全体の整合性をどのように見出すかという大原則に、私たちを引き寄せてくれます。論理的な辻褄を合わせるのではなく、「その心は」と言うところが預言解釈の目標かもしれません。

さて、預言者や預言の記録にはいろいろと性格があって、時間に関して語っているものは、聖書全体の中でも特殊なものに限られます。その一人が、ダニエルです。

でも、ダニエルに未来の歴史をすべて啓示されたか、というと、そうとも限りません。新約聖書の福音書に記される「奥義」と呼ばれる新たな啓示があって、それは旧約時代にはまだ明らかにされていなかった事柄です。

そして、神の最終目標として描かれている「天国」もまた、その奥義の一つとして、マタイは記します。メシアが到来してから天国の成就に至る過程に、異邦人が関わってくる部分があって、イスラエルがその間、一時的に表舞台から引き、先の者があとになるのです。ダニエル預言では、その部分が空白地帯。記述がありません。つまり、メシア到来と天国の成就とが、続いて記されています。

本来、メシアが登場したなら、その人こそが王となって統治するはずでした。王国の成就も同時にあるはず。ダニエル預言を見ていると、引き続いて2つのことが起こりそうです。ところがそうはならず、奥義としての天国がしばらく続き、その後で、文字通りに地上の天国が成就する、というのが、新約聖書の啓示なのです。

マタイの記しているキリストの終末預言は、イスラエルが再び表舞台に出るところ。それが次に荒らす憎むべき者が登場する場面です。その前に、まず預言のはしごから。

ダニエルの七十週の預言

預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)
(マタイ福音書24章15節)

預言者ダニエルによって言われた、というのが、ダニエル書9章の内容です。BC539 年ころの出来事と考えられています。バビロン帝国がペルシャに滅ぼされて、イスラエルが捕囚から帰還できることになった年です。以下にその引用をしてみます。

24あなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています。これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。 25それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。 26その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。 27彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。(ダニエル9:24-27)

預言の実現内容は、実際にそれが起こってからこのことを指していたのか、と気がつくことがほとんどです。しかし、このダニエルの預言は「七十週が定められて」いるという時間が記されているため、イスラエルの人々にとっては、その時期を巡ってさまざまな期待があっただろうと思います。黙示文学というものが盛んになったのも、その表れでしょう。ダニエル預言書自体が、しばしばその黙示文学に分類されるのですが、多くの黙示文学に大きな影響を与えたことは確かです。

七十週を人々はどう解釈したでしょうか。大雑把に長い期間、と比喩的な解釈では収まらなかったでしょう。現実のメシヤの到来を期待するのと同様に、具体的な時間、期間を想定することは当然のことです。七週と六十二週とは、日数にすると49日と434日、合計483日。一日を一年と考えて期待感を高揚させていたなら、その年数に合わせて黙示文学が非常に盛んになった紀元前2~1世紀に符牒します。

実際に細かな年号合わせをしようとすると、いろいろな出来事の年代決定も不確定なことが多すぎて、これ、と決めることはできません。ただ、ユダヤ人の中で生まれたメシヤ期待は確かで、それに応じたイエス・キリストが示している数々の「メシヤ」としてのしるしも、その期待に応えるものだったのです。

つまり、ダニエル預言の七十週の一日を一年と考えるに十分な証拠が、イエス・キリストだと言えます。それで、「七十週目」だと考えられる「一週の間」に関する預言も、7年間の出来事を指しているのだと考えるのです。
そして、「きたるべき君」である「堅く契約を結ぶ」この人物が、「週の半ば」には、「犠牲と供え物とを廃する」と言われますが、イエス・キリストはこの人物こそが「荒らす憎むべき者」としているようなのです。

荒らす憎むべき者と大患難

(1) ダニエル預言にあった荒らす憎むべき者 (15節)

この預言は、特定の人物を指示しているのでしょうか。ダニエル預言の中でメシアの取り扱いに続いて登場するこの「きたるべき君」もまた、イエス・キリストに準ずる特別な人物を指していると考えるのが妥当です。

そして、その人物が「週の半ば」に豹変するように思われるのです。イスラエルとも堅い契約を結んだはずの人物が、イスラエルの中心的な出来事の「犠牲と供え物」を廃してしまうのです。つまり、イスラエルに敵対する者となっているのです。ここから、イスラエルにとっての「大きな患難」となります。

だからこそ、それを受けてマタイは「読者よ、悟れ」と、後年にこの記事を読むことになるはずの弟子たちに向けて書いています。その時が来たら、という危機感を込めているようです。

(2) ユダヤにいる人々への避難勧告(16‐18節)

そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。 屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。 畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。

そこで、この緊急事態逃避勧告、です。一刻も早く、ユダヤから逃れて山へ行くように。将来起こるべき事柄として、「あなた方の逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ」とも勧められています。

この勧告を聞いた(見た)弟子たちは、実際に、何をすべきだったでしょうか。「読者よ、悟れ」とマタイが書いたとおり、時が来た時に行動をとることができるように、備えていなければならない、ということなのでしょう。つまり、弟子にとっては具体的な勧告として読むべき箇所なのです。

AD66年からのユダヤ戦争では、わずかにローマ軍の攻略、包囲が解かれたすきに、イエス・キリストのこの勧告を思い出した弟子たちは、エルサレムから逃れます。そうしなかったユダヤ人たちは、AD73年まで戦い続けて、全滅となったのでした。

では、「そのとき」とは、AD70年に起きた出来事の預言であってすでに成就した事柄だと結論できるでしょうか。次に続けられている状況説明は、ユダヤ戦争だけにとどまらない印象を受けます。

(3) 荒らす憎むべき者と大患難(19‐22節)

その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。 あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。 もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。

「その日」「その時」にある、かつてなく今後もないような大きな患難、という出来事がどれほどの規模のものなのか。現代史を知る私たちは、第二次世界大戦のユダヤ人に対するホロコーストを知っています。6百万人という犠牲者がでていることを見るとき、1,2世紀のユダヤ戦争は「今後もないような大きな患難」とは言えないように思われます。つまり、「大きな患難」と言われる出来事は、紀元70年の神殿崩壊時にすでに起きてしまった出来事だ、とは言えないのです。

この預言は、さらに将来に起こるべき、次の時代の直前の事柄のことを指していると考えるのが、最もよさそうです。ホロコーストよりもさらにひどい患難が待ち受けている、ということを考えると、愛の神の預言としてふさわしくないかのように思えることもあります。天国が成就する直前の状況を預言する、ということで言えば、イスラエル建国が成就した時以上の大患難が起こるのは、あり得るのだろうと思います。さらに、大患難という出来事を外面的に見るだけではなく、その意義を理解するなら、大患難そのものが違う出来事のように見えてくるかもしれません。

選民のためにその期間が縮められる、という言明は、大きな患難の期間は短くとどめられることを示します。もし縮められないなら、救われる人はいない、ということは、縮められることによって救われる人がいる、ということになります。いつ終わるとも知れない暗闇のトンネルに放り出されるのではなく、終わりの光が見えるくらいの期間、というイメージを持つことができるわけです。

つまり、この大患難は、単にイスラエルを痛めつけるだけのものではなく、救われる人も出る、神の深い計画のもとになされるのだろう、ということなのです。

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