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滅びないため

御子を賜ったのは「滅びない」ため、と言われます。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3章16節

滅びる、という言葉はかなり耳障りな感じがします。現実に死後の出来事に対する恐れが、日本でも昔から地獄絵図のようなもので語り伝えられているように、民族を超えてすべての人間に共通な問題だと言えます。つまり、人間は死んだあとに神のさばきを受けて、そこで罪があると定められたなら、「滅びる」というものです。

冒頭の言葉が語られているのは、ニコデモという人物に対して。ユダヤ人の指導者でした。ユダヤ人自身は、神の選民思想が強く、そのような形の滅びが自分たちにやって来るとは考えていなかったようです。彼らの当面の問題は、異民族の支配下にあるイスラエル王国の再興であり、そのためにはイスラエル民族が一丸となってモーセの律法を守らなければならない、と固く信じていたのです。

当時、ユダヤ人指導者層はすでに、イエスを危険視し始めていました。神殿の活動を破壊してイスラエルの一致を乱す者だ、と。それは民族の滅亡に向かう、バビロン捕囚の再来を意味します。一方、民衆はイエスを救い主キリストだとして熱狂的に受け入れ始めていたため、無下に放逐もできません。イエスにどう対処すべきか。彼らはまだ結論はつけられずにいました。

そんな中で、ニコデモがなぜイエス・キリストのところにやって来たのか。「神からこられた教師」(ヨハネ福音書3章2節)とイエスを呼んでいる言葉には、真剣に何かを尋ねたい、という気持ちが表れています。

もしかしたら、当時、イスラエル民族が滅びに向かっているのか、それとも救われるのか、神の約束である神の国は、どのように実現させられるのか、どうやってそれを知ることができるのか、その質問をしたかったからかもしれません。ユダヤ人指導者たちが危険視していた当人に、ニコデモは直接、話を聞こうとしているのです。

その質問をまだ何も言わないうちに、イエスは驚くようなことを語ります。

「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ福音書3章3節)

神の国こそが、テーマの核心です。それを見たいと願ってニコデモはやって来たのでした。それが、新しく生まれなければならない、と強く言われたのです。自分の質問したい心を見透かされていることにも驚いたでしょうが、新しく生まれるとは何か、と、全く理解できない答えに、ニコデモは狼狽します。

イスラエルに対して神が約束してくださった「国」とは、もともとは紀元前二千年の、イスラエルの父祖アブラハムへの神の契約にある、

「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。」(創世記13:14,15)

という文言からきます。紀元前千年頃にはダビデ王による王国が樹立し、その約束がなったかのように見えました。しかしほんの2代の間で王国は分裂、300年後には北王国がアッシリヤに滅ぼされ、500年後には南王国もバビロンに滅ぼされるのです。

アブラハムへの約束からすでに2000年の時が経っていた時代、ニコデモは神に問いかけようとします。いつ、どのようにイスラエル再建が成就するのか。ローマ帝国の強大な支配下にあるユダヤ人には、まるでその可能性はないかのような気分に陥っていたでしょう。つい100年前にはユダヤ人の独立国家を建てたかに見えた蜂起がローマによって蹴散らされ、かえって神殿の活動もローマ帝国の権力に隷属する状態でした。

旧約聖書のエズラ記にあるバビロン捕囚からの帰還と神殿再建では、モーセの律法の遵守が民族改革の骨格でした。安息日を守り、民族としての純潔を守ること。それを一途に行おうとして、さまざまな規定を作り上げてきた400年だったのです。その真面目な努力は、神は認めてくれないのだろうか。

イエス・キリストの「新しく生まれなければ…」という答えは、そうしたユダヤ民族の努力とは無関係なもののように聞こえたでしょう。

ニコデモは少しカチンときたかもしれません。民族が滅びるかもしれない危険が常にある、というのに、その間抜けっぽい、意味の分からない返事は一体何なんだ、と。ユダヤ教の慣習で、新しく生まれるとは成人、結婚なども意味していたようですが、ニコデモはそれらはクリアしている身分。「私はもう神の国に入っているとでも言うのか」、と。もちろん、ニコデモはまだ神の国に入っていません。

イエス・キリストの話は続きます。ニコデモによくわかる事例として、「青銅の蛇」が荒野で上げられた事件に触れます(旧約聖書 民数記21:9)。

紀元前15世紀、イスラエル民族がエジプトを脱出し、カナンの地に到達する直前の事件でした。一緒に指導的立場にあったモーセの姉ミリアム、兄アロンもすでに死んでいます。エジプトを出たときに大人だった者たちは大多数がすでに死んでいます。荒野を40年近く放浪した最後の段階。そこで民は、天から降る食べ物マナに粗末でいやになったと叫び、他に食物も水もない、と文句を言います。それに対して神が「火のへび」を民のうちに送り、かまれた者は死んでいきました。かまれて、まだいのちがある者がいるとき、青銅で作られたへびが掲げられ、それを仰ぎ見上げた者は、助かったのです。放置されていたら、必ず死ぬ。その人々に、「見上げる」だけで救われるチャンスが与えられたのでした。

イスラエルが新しい世代に置き換ってきていた、荒野最後の段階での、神によってもたらされた死の恐怖でした。神にたてついた古い世代だからダメ、その失敗の経験がなかった新しい世代だから約束の地に入れる、というわけでもありませんでした。「イスラエル民族で神の選民だから結局は、神の国に入ることは入る」 と、そう思っているのは、実は間違いだ、と。だからだれでも「新しく生まれ変わらなければならない」のです。ニコデモも、その一人だったのです。

新しく生まれ変わるのは、神が「これを見上げよ、そうすれば救われる」と指示なさったものを、信仰をもって見上げる時、実現することだったのです。国の再興のために規則をどれだけ守ったか、という次元の話ではありませんでした。

「滅びる」ことについて、私たちは、心のどこかに、自分は大丈夫、なんとかなるだろう、という淡い願いと、このままではどうにもならないかもしれない、という不確かな不安、恐れが同居しているものです。時に応じて、どちらかが強く現れる感じです。絶対大丈夫、と言い切れない。でも、危険な崖っぷちにいる、とは思いたくない。

身近に危険を感じられないから、そうしたことも考えない、で済ませてはいられないのです。その解決が神の国に入ること、でした。イエス・キリストの答えは、人類全体のための、滅びから救われるための答えだったのです。

新しく生まれ変わる、とは、そのような信頼を神に対して抱いて、古い習慣から決別することに至る最初のスタートを指すのでした。そこに、命があるのです。不信のままでは命を受けられず、死に向かって進み続けることになります。行き着く先は、永遠の死、永遠の滅び。永遠に神と断絶した者となるのです。それが目に見える形となったのが、十字架のキリストでした。そして、そこで終わることなく、三日目に復活。それが、神からの私たちへの答えです。



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