見出し画像

マタイによる福音書

イエス・キリストの歴史と真理 ~「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。」~

系図(ギリシャ語でgenesis)

マタイは、イエス・キリストの十二使徒のひとり(マタイ10:3)。自分に関して「取税人」とわざわざ肩書のように記しています。マルコもルカも、肩書なしのマタイとだけ紹介しているだけなのに(マルコ3:18,ルカ6:15)。エピソードの順序を時間順ではなくテーマごとにまとめて書いているマタイが、自分の出自を福音書9章に置いているのは、罪が赦された奇跡的な恵みを強調する意図があると思えます。そこですでに、自分の本名ではなく「マタイ(神の賜物の意)」の名を使っているのです。他の福音書はへブル名の「アルパヨの子レビ」と紹介しています(マルコ2:14、ルカ5:27)。

取税人としての記録能力を生かして、マタイが最初の福音書をまとめたと考えられます。考古学資料に残っている聖書目次では、福音書の順列は、すべてマタイが最初になっています。おそらく、一番最初に書かれた新約聖書の書巻なのだろうと推測されます。

創世記[ギリシャ語聖書でGenesis]に繰り返し出てくる「トレドス(ヘブル語)・genesis(ギリシャ語)」という言葉は「系図」「由来」などと訳されていて、「歴史の記録」を意味します。マタイは、旧約預言の成就としてのイエス・キリストの事実の歴史の記録として、この福音書を書いていると考えられます。イエス・キリストの「トレドス」です。

おそらく、ユダヤ人主体の教会のためにまとめられた福音書だろうと思われます。個人的には、四福音書の中で最初に、教会が迫害にあって離散し始めた、しかしまだユダヤ人が教会メンバーの主体であった早い時期に書かれたのだろうと考えます。内容、書き方も、当時のユダヤ人が納得できるスタイルになっているようです。系図を冒頭に置き、預言の多用、「天国」という用語の使用など、ユダヤ人向けならではのものです。

さらに、主の弟子の集まりである教会を御言葉の教えによって訓練する主の働きを前面にして、この福音書をまとめているように考えられます。名づけて、弟子訓練の福音書。(28章19,20節)

有名な「山上の説教」(5-7章)のほかに、弟子派遣の教え(10章)、たとえによる天国の教え(13章)、天国を待望する生活の教え(18章)、終末預言(24-25章)というように、5つの教えがまとめられていて、残りの6つの部分とで、全体が11に区分されます。これらのまとめられた教えの他にも、全体的に教えの内容が多く、数々の出来事の記述は重要テーマを浮き彫りにするように簡潔にまとめられているのです。(→マタイ構成)

11の部分に分けられているこの福音書全体を、ヘブル文学によく見受けられるキアスムス構造として見ると、中心に位置するのが奥義として説かれる譬による天国の教え。キリストが到来したのなら、天国も成就しているはず。その天国は一体どうなっているのか。その問いに対する答えを、マタイは解き明かしているのです。つまり、イエス・キリストが拒絶されて、「天国」がキリスト再臨まで目に見えない神の国として存在することになったことが、この福音書の中心・転換点であることが浮かび上がってきます。

なお、創世記が「トレドス」で全体が11区分に分けられるのと同じように、マタイ福音書が11の区分があることは、マタイが聖書の最初の書巻である創世記をイメージしながら書いていたのではないかと想像されます。新約時代の「創世記」が、このマタイ福音書です。そう思って見直すと、新約聖書の最初の5巻は、旧約聖書の最初のモーセ5書になぞらえてそろえられていたかのようです。

神の契約は、アブラハムの「子孫」に「地を与える」ことでした (創世記15:18-21)。神の御子イエス・キリスト来臨は大事件ですが、キリストの来臨に伴う御国の成就も大きなテーマです。キリストが来臨したのに御国は完成しなかった、ということではキリストの意義が半減してしまいます。マタイは、キリストの来臨に伴って成就するはずの天国が、イスラエルの拒絶によって奥義として現存することになったことを、この福音書で示します。奥義とは、隠されていたものが明らかにされる、という意味で、神に心を向けた人には明らかにされているのが現存する天国なのです。

ご自分の民の罪からの救いは、天国の成就を目的としています。地上に出来上がるはずの約束が全くかなわなかったのではなく、目には見えない奥義として存在することとなり、さらに目に見える状態で成就するキリストの再臨の時を待つことになるわけです。

現在の「天国」は、決して不完全な状態というものではなく、地上に天国が目に見える形で成就する時までの一時的なものです。天国そのものとしては未完成だと言えます。その中に悪の要素が入り込んできて惑わされる者たちもいるのです。それは、天国の不完全さによるのではなく、最終的な罪の処分の時を待つ必要があることを意味します。天国を可能にする罪からの救いを決定づける十字架の死と復活は、完全に成し遂げられているのですから。

区分

I. 1-4章        天国への神の備え・キリストの降誕;
II. 5章-7:27  天国の到来・天国の教え;
III. 7:28-9章 天国の到来・天国のしるし;
IV. 10章       天国の宣教・使徒の派遣の教え;
V. 11-12章   天国の宣教・民の応答;
VI. 13章1-53 見えない天国・譬による天国の教え;
VII. 13:54-17章 天国の宣教・キリスト信仰;
VIII. 18章       天国の宣教・罪の赦しの実践の教え;
IX. 19-23章   天国の到来・先の者、後の者;
X. 24-25章    天国の到来・再臨と終末の教え;
XI. 26-28章   天国への神の備え・贖罪の完成;

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?