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ピュア~小さい時は神様がいた~

マタイ5:8

私の場合は、小さい頃は神様がいなくって、大人になってから付き合い始めた。

小学校4年生か5年生の頃だったと思うけれど、学校から帰ってきて家の玄関を入る瞬間、なぜか、自分は「ひとり」だと感じたことがありました。前後の脈絡も何も覚えていないけれど。

それで、ほかに頼れるものはないのだから、自分が頑張らなきゃ、と、努力タイプの人生を歩み始めていたんですね。

もっと小さい頃には、神さまがいたんだろうか。なぜか、昔の記憶はほとんどないのです。

心の清い人たちは、
さいわいである、彼らは
神を見るであろう。

心がピュア

それが「理想」のようでもあり、そうでもないような気もするけれど、「さいわい」かどうかと言ったら、聖書ははっきりと「さいわい」だと。

不純物がないことをイメージするけれど、心の中に何も不純な思いがない、というわけじゃないかもしれない(と、なんだか自己弁護しているみたいだけれど)。

言ってみれば、「本当に好きなのはこの人だけ、よそ見はしない」というような。

イエス・キリストをまっすぐに見続けるとき、「あ、神だ」と。

最近はいろんなところで「カミ~~~」という言葉を見聞きするけれど、天地を造っちゃう「カミ」は、そうそうはイナイだろう。その神を見るに至る「心がピュア」になるには、修行が必要なんだろうか。

救い主到来!の預言とねじれた期待

2000年前、ユダヤ人は自分たちの国の再興をとっても強く願っていました。ローマ帝国に支配されていたからです。

日本は、他民族に何十年、何百年と支配されていた、という経験がありません。「日本沈没」という小説があって、国土を失った日本人が世界に散らされるという話。これは「国土」そのものが海底に沈んでしまっての逃避なので、ユダヤ人の場合とは違います。それ以上に違うと思えるのは、日本人を日本人としているのはやっぱり国土なんだろう、という点で、世界に散ったら日本人であり続けることはできないんじゃないか。。。

ユダヤ人は、世界に散って2600年の間、ユダヤ人であり続けたのでした。それを可能にしたのが、モーセの律法であり、預言でした。

「国」を失っても、将来に予告されている自分の「国」への期待を、彼らは持ち続けます。その完成は、救い主の到来しだい。

イエスが「天国は近づいた」とのメッセージを語りながら、数々の奇跡をおこなったとき、「この人こそキリスト、救い主だ!」と熱狂して迎えたのも当然でした。

弟子たちは、それを確信し、期待して、いっさいを捨ててイエス・キリストに従います。国の再興に向けて全くピュアな思いを抱きながら。

ところが、その最期は「十字架の死」だったのです。弟子たちはちりぢりに。

神の目指していたことは、弟子たちの目指していたことを遥かに超えていたのです。弟子たちは、目先の望みにとどまってしまって、結果的には、ねじれた願いだったことがわかります。

幼な子のようにならなければ、天国に入ることはできない

弟子たちは、何を間違えていたのでしょう?

ずっとあとで、イエス・キリストが弟子たちにこんな教えをします。

「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」
マタイによる福音書18章3,4節

確かに、最初からイエス・キリストはこう告げていたのです。

「悔い改めよ、天国は近づいた」
マタイによる福音書4章17節

救い主が来ただけでは、天国はできあがらない!王様だけがいても、国は成り立たなかったのです。国民がいなきゃ!

だれが、天国の国民にふさわしいのか?それが「幼な子」だったのです。

ここの「幼な子」は、一人では生きていけない存在をさします。乳幼児のように、親の世話がなければ死んでしまうものです。幼な子は、生きることはまったく親に依存している、信頼しきっているべき関係。

なすこと、話すこと、いっさいを受け入れる。そんな信頼です。

イエス・キリストが十字架にかかって死んだとき、弟子たちはそれを受け入れられませんでした。まさか、そんなことになるなどと、思いもしなかったのです。救い主が来たら、オートマチックに、天国ができあがる、とばっかり。完全他力の願いでした。

イエス・キリストの他力契約

キリストの「他力本願」は、ちょっと違ったのです。なされること、話されたことに「信頼する」という自分からのアプローチが必要でした。その違いを乗り越えることを促して、「悔い改めよ」と、最初から伝えていたわけです。

ピュアな目でイエス・キリストを見ることで、近づいた天国の「国民」になる。それが、聖書の新しい「契約」だったのです。

聖書の教えは、「約束」の性格が強くありました。「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という命令。自分で頑張ってそれをする、というんじゃなくて、そうできるようになる、という約束。その約束を信じられるか、そう約束しているイエス・キリストを信頼できるか、が、「幼な子」になるかどうかの分かれ目、でした、私には。。。

ということで、大人になってから、幼な子に逆戻り。そうじゃなかったら、海外生活などありえなかっただろうな~、と思い起こす初期高齢者でした。

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