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キリストの救い:神と共に歩む人生

聖書の神、って、ひとことで言えばどんなん?

さすがにひとことでは言い尽くせませんが、聖書の全体を一句に凝縮しているようなことばが、ヨハネ福音書3章16節。その日本語口語訳が下。

ヨハネによる福音書 3:16
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

(1)永遠の命を得る

聖書の中の聖書といわれるこの一節が伝えている「聖書の目的」は、「永遠の命を得るため」です。

聖書を知らなかった頃、永遠の命といわれても、せいぜい「不老不死」をイメージするくらいでしかありませんでした。よくよく聖書を読んでいくと、宇宙を無から創造した永遠の神が、私たちと共におられて、私たちがイキイキと生きるようになることが、永遠の命を得ることだ、と教えられます。

その終極が天国です。死んだ後に行くところ、ではなく、今ここで、神が共におられる、目に見えない天国がある、と聖書が描いているのです。そしてもちろん、歴史の行き着く先にある天国も、聖書は明確に約束しています。


(2)神は世を愛された

聖書のはじめは、「はじめに神は天と地とを創造された」です。人間も創造してからすべてをご覧になったら、「はなはだ良かった」と言うほど、神さまは大満足の出来栄えだったと記されています。神さまは、この世を愛しておられるのです。当然、一人一人の人間を、愛してくださっているのでした。

気持ちだけいただいておくような「愛」ではなく、一心同体、一つとなって一緒に行動することを心から望む思いが、愛することの意味です。

世を愛された神は、「私を愛された」。愛するとは、非常に個人的な出来事で、「私」と一つになることを心から望んでおられる、ということなのです。

では、この「私」は、「はなはだ良かった」と神が大満足に思ってくれているような者だったのでしょうか。

正直に言って、神といってもどんなものか得体が知れない、人間が勝手に作り上げたイメージだけのものだろう、くらいにしか私は考えていなかったのです。まるで、親に向かって「お前なんか知らない、お前なんか親でも何でもない」と言っているようなもの。そんな「私」は、「はなはだ良かった」とは決して言えない者でした。

実際、今のこの世は、神を無視して、神の被造物である地球を自分勝手に使い放題にしているのです。

聖書は、そのような人間の状況を「罪」と呼びます。

神を無視した生き方は、神の愛の真実さを、全く理解できないために、身勝手な生き方に陥ってしまいがち。犯罪を犯していない、というのは、たまたまその事態に遭遇しないで済んだ、というだけなのです。人は誰でも、衝動に駆られて、犯罪に突き進んでしまうかもしれない、罪びとなのだ、と、聖書は、赤裸々にしています。一つであることを破壊する一つ一つが、罪の表れ。

それでも、神はこの世を愛してくださっている、というのは、驚きです。もっと驚くことに、神が人の罪を負って一切を処分し解決してくださった、ということ。それをしてくれたのが、イエス・キリストです。


(3)神はひとり子を賜った

二千年前、エルサレム近郊の小さな村ベツレヘムで、ヨセフとマリアの子として生まれたイエスの記事は、クリスマス・ストーリーとして有名です。ヨセフと結婚する前に神がマリアに働きかけて生まれたイエスは「神の子」と呼ばれます。神であり、人であるイエス・キリストは、このようにして誕生したのでした。

このイエスが十字架の磔刑となるのですが、なぜ? そこで「神があなたを愛しているから」と伝えられても、「何、それ?」どまりかもしれません。

この世を愛して、この世を一つにするために、神はひとり子を賜った、とは、神を無視して暴走し続けるこの世をそれでも愛して、イエス・キリストの犠牲と引き換えに世に命をもたらすために神のとった行動だったのです。そして世の中にある私たち一人ひとりも、神に愛されているのです。

愛が、心の中だけにとどめられているなら、それを知ることはできません。でも、それが言葉に表され、さらに行動に移されるときに、はじめて、伝わってきます。永遠の神は、愛を行動に移して、自らを無にし、人となって、十字架の死を歴史に刻み込んだのです。

力づくで一つにまとめるのではない。天地を創造した神なら、どんなことでもできたでしょう。でも、分断された世界を一つにするために神がなさったことは、神の子を犠牲にすることでした。

愛の実現は、決して強制ではなく、犠牲によるものだったのです。

でも、もう一度、私たちは不思議に思わないでいられません。なぜ、イエスは死ななければならなかったのか。

(4)神は人が滅びないことを望んでおられる

人が、もし、神も仏もない、と言うしかない世界だったら、そんな世界の行き着く先はどのようなものでしょうか。聖書がはっきりと告げているのは、「罪の支払う報酬は死である」ということです。この世の悲惨な状態は、人間の罪がもたらしたものだ、と言うのです。

人の死に接するたびに、重い悲しみを感じます。

もちろん、人間には悪いことしかないわけではありません。もともとは、「はなはだ良かった」と言われるほどだったのですから。でも、神を無視していきつくところは、死でしかないのです。神は、それを望んでいない、と、聖書は伝えています。一人も滅びないように、というのが、神さまの望みなのです。

そして、すべての人の死を請け負って命を与えるために、罪のないイエス・キリストが罪を請け負って、十字架で死なれたのです。そのことを、紀元前700年頃の預言がすでに描き出していました。これは、驚き!!

彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
われわれの慕うべき美しさもない。
彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲らしめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、
おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、
彼の上におかれた。
彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
口を開かなかった。
ほふり場にひかれて行く小羊のように、
また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
口を開かなかった。
彼は暴虐なさばきによって取り去られた。
その代の人のうち、だれが思ったであろうか、
彼はわが民のとがのために打たれて、
生けるものの地から断たれたのだと。
彼は暴虐を行わず、
その口には偽りがなかったけれども、
その墓は悪しき者と共に設けられ、
その塚は悪をなす者と共にあった。
しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、
主は彼を悩まされた。
彼が自分を、とがの供え物となすとき、
その子孫を見ることができ、
その命をながくすることができる。
かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
義なるわがしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
                       
[イザヤ書53章から]

実際に行われた「罪」は、決して簡単に赦されるものではありません。命を失わせる結果になる罪には、極刑がふさわしい。それを、一切合切、負ってくれる人がいる、なんて、あり得ない。

でも、数百年の時間の流れの中で、大切なことを実現していく神。この神が、「不義を負う」と約束し、「多くの人を義とし」、共にいて下さる、と約束し、最終的な永遠も約束しているのです。


(5)神の御子を信じて永遠の命を得る

神がおられることを信じる。ただそれだけなら、自分の人生にあんまり関係なさそうに思えます。

でも、約束の言葉は違います。それが書きとどめられ、本当に実現するかどうかを歴史に確かめることができるように、「私」に向けて届けられています。そこに表されている「心」を含めて、信頼するかどうするかが、私のなすべき決心でした。

だれかと向かい合っている時、何も言葉を交わさなければ、心の内を知ることはできません。それでも、その人の表情やら状況から、何かしら、想像することができるかもしれません。神は、目に見えないので、その心を知るには、ただ、言葉だけによります。

「はじめにことばがあった」

そのことばが人となって、十字架にかかって死なれ、復活。それが、神の御子、イエス・キリストでした。

歴史上、唯一の出来事を伝える聖書です。聖書を読んで思わされるのは、今の自分の歩みも唯一の歴史だ、ということです。この私に、神の言葉が語りかけていて、永遠のいのちを得させてくれる。

私の人生を負ってくれるキリストの言葉を信じるとき、神が共にいて下さるようになるのです。


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