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はじロー(23)平和と希望と愛

はじめて読むローマ人への手紙5章1-5節

平和と希望と愛

平和。安定した社会で、努力が報われて、安定した生活を営んでいられて、あとは平穏な余生を過ごすだけ、という平和を思い描いていたら、たぶん、パウロはそうじゃない、って言うかもしれません。

この手紙を書いているパウロは、少し前に書いた別の手紙で、こんなふうに自分の状況を記しています。

私は労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。
2コリント11章23-27節

これを見れば、平和から程遠い人生を送っているように思えます。でも、パウロは「神との平和」を得ていたのでした。そして、「今立っているこの恵み」を喜んでいるのです。

神との平和がある、という恵みです。神が共にいてくださる恵みです。

神が自分の味方になっているのなら、何も怖いことはない。大変そうに見えるどんなことも、そして実際にパウロが経験した大変なことも、その後に来る栄光に預かるための前哨戦にすぎない、と考えることができたのでした。

日々の積み重ねにおいて、この気持ちが支配しているなら、神の行為に身を寄せることが習慣となり、身についていきます。品性が錬られるのは、この過程においてです。勝利を夢見て練習に励む以上に、勝利が確実であることを知って今の訓練を喜んでいるのです。

何より、神に愛されていることが心の平安です。神の愛を知っている精神は、親の腕の中にある幼子のように平安に向かうのです。それが神にある平和の中身でした。

神に背を向けている罪人であったときには、決して有り得なかった神との平和を、パウロは持っていたのです。


ローマ人への手紙5章1‐5節

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
(新改訳2017)


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