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はじロー(33) 律法と恵み

はじめて読むローマ人への手紙5章20節

律法と恵

パウロはすべての人が天地の創造主である神と共にいきいきと生きる命が得られることを話し始めています。

でも、世界には人の心に教えるべき宗教の教えが至る所にありますが、それは同じように私たちを生かしてはくれないのでしょうか。

その典型としてパウロが記すのが、モーセの律法でした。3章でもすでに、律法の働きは罪の自覚を促すことだと、パウロは示していました。

神と共に生きるために必要な準備をすること、罪の自覚を促し、神に心を向けなおすという悔い改めを促すのが、律法の役割だったのです。

さらにここでパウロは、律法が入ってきたのは違反が増し加わるため、ともっと強い言い方をしています。罪の自覚を促す、ということだけではなさそう。

パウロの時代には、ユダヤ教で実践されている律法とは、本来のモーセの律法ではなく、先祖からの言い伝えが加えられたものが主体でした。伝えられている教えは、数百年に渡る研究の成果に基づく緻密なものになっていました。しかし、律法そのものまでもないがしろにするような教えに変質してきていたのです。

当時のエルサレム神殿は拡張の一途、イエスの弟子たちですら驚嘆するような荘厳なものでした。見かけは立派な宗教。しかし、内実は罪が増し加わるばかり、だったのです。

まさに、律法の教えを元にして、違反が増し加わっている状況だったのです。

人間は、生ける神をよく知らないままに教えを受けても、自分が変革して神に近づくというよりは、自分のやりやすい教えに作り変えてしまう傾向があるようです。自分が教えを実践できている安心を得たい、というところでしょうか。神の怒りから逃れることができるために、ますますその道を踏み進んでいったのでした。

人間の作った宗教規則に縛られ、監視社会の中でさばき合っているようでは、生きた神と共に生きることから、ますます遠ざかってしまいます。

そのような中に、ダビデの子孫として、また神の子としてイエスは生まれたのです。目に見えない神が、目に見えるように現れた!パウロの教えのスタートは、死んで葬られたはずのイエスを見た経験でした。

そして、恵みが増し加わった、と、パウロは言います。

人類一切の罪を負って十字架に死に、よみがえらされた一人の人イエスによって与えられる恵みだけが、生ける神を私たちにはっきりと意識させ、悔い改めへと導いてくれる。それがパウロの経験であり、この手紙にも記されている内容の中核です。

イエス・キリストのよみがえりから2000年たった今に至るまで、恵みは満ち溢れて、世界中に届けられています。わたしもそれを受け取った一人です。

ローマ人への手紙5章20節

律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。

(新改訳2017)


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