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はじロー(13)ただで与えられている光

はじめて読むローマ人への手紙3章21-24節

ただで与えられている光

光があっても、後ろ向きだと、どこから照らされているかわからないものです。いろいろ反射しているものを見て、それが光源のように考えている、なんてことも。。。。

2000年前、何が起こったのか?光がきた、とヨハネは書きました。

パウロは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも理解されるように、もっと理論的に語ります。世界中のどんな民族、どんな人にも、創造主である神がかかわってくれる、という知らせは、パウロを通してローマ帝国に広く伝えられていきました。

ここまでパウロは、神と無関係に歩み続けようとしている人間が、自分の思うとおり歩むに任せられた状況を描いてきていました。それも神の計画の一部だったことがわかります。

自分が裸の王様であることに気がつくには、痛い目にあう必要があるのかもしれません。旧約時代のイスラエルは、そのようにして世界の諸民族の間に散らされていました。諸民族もイスラエル民族を見て、そのことに気がつくように、だったのです。

でも、その旧約時代は終わりました。光は地上に届いたのです。旧約聖書であらかじめ予告されていたとおりに、キリストはこの世に来られ、神から離れていた人間と神との間に「あがない」という架け橋を完成してくれたのです

あとは、その架け橋を信じて渡るだけ。世界で唯一の、狭い門です。なぜこれ一つしか神は門を用意してくれなかったんだろう、と文句を言っても、それはキリストの負ってくれた苦難の大きさを私たちが想像することが難しいから、かもしれません。世界の各地で、キリストが受けたような苦しみがあったら、大変なことだったでしょう。

一貫した神のご計画、一貫してそれをあらかじめ伝え続け、そのとおりに成就したのが、キリストの十字架の死によるあがないでした。

「あがない」に、2つの意味があることだけ付け加えておきます。

一つは、罪のつぐない。わたしたちが受けるべき刑罰をキリストが身代わりに受けて、完全につぐなってくれたのです。

もう一つは、買い戻し。ある事情で自分の手から離れてしまった土地を、親戚が代わりに買い戻す、という仕組みがイスラエルにありました。そのように、神のもとから離れた人間を買い戻して自分のものにしてくれたのです。神の民と呼ばれるにふさわしくなかったのに、神の民にされた、しかもただで、というのが、キリストのあがないでした。

キリストの死は自分のためだった、と信じて受け入れる時、私たちが光の方に向きを変えて、これが光源だったんだ、とわかるのです。

ローマ人への手紙3章21‐24節

しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。


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