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存在論的デザイン・存在論・人類学の存在論的転回ってなんやねん

※2021/10/2追記:その後、存在論的転回を提唱した?エスコバルによる「Designs for the Pluriverse」を読み、記事を書きました。こちらも御覧ください

「存在論的デザイン(ontological design)」ってなんなんだと思っていたが、2年前に自分で書いていたようだ。「are we human?」に何度となく出てきたコンセプトが「存在論的デザイン」であったのだなあ。

この「デザインしたモノによって、私たちはデザインしかえされる」という見方で、ヒト-モノを超えたアクター間の連関からデザインを捉えることを、世では「存在論的デザイン」と言うらしい。

もう少し噛み砕いて長く書いてみると、私たちが何かをデザインすると、そのデザインしたもの自体に、私たちはデザインしかえされる(具体例は上記記事を読んでください)。

それが本当にたくさんのヒト(その他の生き物を含めて)とヒト、ヒトとモノ、モノとモノのあいだで起きていて、僕たちは色々なヒトやモノや生命と相互にデザインしあっている。そういうネットワークのなかに私たちは生きてるんだよ、という前提に立ってデザインを考えてみようね、ってことですね。それを「存在論的デザイン」と言います。

禅の「レンマ」的、あるいは「縁起」的だ…と捉えてもよさそうです。超適当に言うと「仏教的なデザイン」って感じですね。

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存在論的デザインっていうのは、Designs for the Pluriverseの著書エスコバルによってばーんと世に示された考えかたのようで、それというのは「人類学の存在論的転回」からやってきているらしい。

(で、そのいろんな人やモノや文化が独立していっぱいあるんだよ、多様性を大事にしようぜ、的な世界感=多元主義におけるデザイン=Designs for the Pluriverseを主張しているのがエスコバルなわけです)

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ところが一方、存在論的デザインの何が"存在論"的なのかはさっぱりよくわからない。

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そもそも、「存在論」ってなに?

検索してみると、存在論とは「在るとはどういうことかについて研究する学問」とのことだそう。例えば、「神様はいるのか?いないのか?」とか。「もし神がいるとするなら、それってどういうことなんだろう?」を考えよう的な学問。あるいは、「私が存在するというのは、どういうことなのか?」とか。

そんな存在論的な("ある"ってなんだ?的な)転回が、2010年代に人類学で流行っているらしい。

存在論的転回。ちょい言葉がかっこいい。が、存在論的に考えるとはどういうことかはよくわからん。「あるとはどういうことか?と考えながらデザインをする」ってことでしょうか?たぶん違う。

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存在論的に"転回"するなら、その「転回する前」があるはず。それが「認識論」。つまり文化人類学における存在論的転回っていうのは、人類学が「認識論」から「存在論」へ転回した、ということのようです。

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じゃあ認識論ってなに?

認識論っていうのは「認識するとはなにか?」とか「私たちは、どうやってモノを認識するのか?」とかを考える学問です。

が、こんなふうに高尚に(メタに、という意味です)捉える必要はなくて、認識論的に考えるとは、出会ったものを「どう認識したらいいんだろう?」と考える、ということのようです。

人類学に引き寄せて考えてみます。

人類学はよその文化をフィールドワークしにいってナンボな学問なわけです。だから、行って見て知ったことについて、認識論的に=「どう認識したらいいんだろう?」=「これって、僕らの文化と照らし合わせて考えると、どういう風に認識できるんだろう?」と考えることが人類学のスタンダードだった。そして、それが「認識論的人類学」なんじゃぞ、ということだと思います。

超ざっくり言うと、「知らない世界を見ることで、自分たちの常識自体を捉え直そうぜ」的なやり方がこれまでのスタンダードの人類学=「認識論的人類学」だったんだ、といっていいのではないでしょうか。

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で存在論的転回は、一体何が転回したのか

で、これが存在論的に転回するとはどういうことなのでしょうか?

転回するためには、そもそも認識論だとちょっとおかしいぞ、という反省が必要なわけです。

人類学は何を反省したのかというと、「認識論」は「西洋的な(≒正しい)私たちの目線」を前提として、「相手がやっていることって、どういう意味があるんだべな」「どう私たちの社会に新しい気づきを作れるんだべな」…という風に異文化を眺めていたというんですね(こういうのを「文化相対主義」というそうです?)。

この、「なんか色々異文化のこと学びにいって書いてますけど、そもそもその見てる視点が僕らの目線じゃん?」

というのが、人類学の反省だったのです。「このひとたちの文化は、僕らにどう活かせるんだろう?」という、かなり支配的なモノの見方をしてんじゃないか、ということですね。(人類学的文脈では、前提としての「同じ惑星・同じ身体を持っているはずだ/考えかたはたくさんあっても」という感覚から、「身体や、その身体に影響を与える環境自体が、全く異なっていたのではないか?」への転換)

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例えば私たち(西洋的価値観という意味です)の中では、「過去」とは、「いま」「未来」に対比されるものです。あるいは、「自然」は「文化(人工)」と対比されます。

具体的にどういうこと?みたいなことは、こちらも僕が過去に記述していたようなので、見てみてください。過去の俺、意外におもしろいことを言っている。

上記は地理学の名著・イーフー・トゥアン「トポフィリア」を引き合いに出しながら、ひとつの事例として「見えている」ことについて迫ろうとする記事です。

私たちの正しさの中では「見えている」というのは、(私たちの定義した)「視界」というものに入っているという意味。でも、ホピ族に言わせれば、記憶の中にある道を辿ることができるならば、それはもはや「見えている」と言っても全くおかしくはないのではないか、という話。

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上記のように、人類学では、絶対正しいだろと思っている当たり前が、普通に通用しないということがよくある。それを、僕らの価値観で「それは未開だ」とか「これは僕らの概念で捉え直すとこうだ」というのはやめようよ、というのが人類学の反省でした。

そこで、「じゃあ、それってどういうことなんだ?」を徹底的に問い直すこと。

一度、自分のなかにある常識、倫理、概念、定義みたいなものを取っ払ったうえで、彼らにとっての「過去」とはなんだ?「自然」とは?「見える」とは?そういう概念を徹底的に調査して「概念自体をゼロから自前で作り出してみること」

この営みが人類学における「存在論的転回」なのです。

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まとめます。

僕らの常識で相手を解釈すんじゃなくて、相手には相手が依って立つ概念や世界があるんだから、それを調査して言葉にしようよ。そのためには「それって、一体なんなんだろう」って、自分の常識を廃して徹底的に問い直し、あるいは新たに作り出すことが必要でしょ。

その、「そこにあるものを問い直す」ことが「存在論的(Ontological)」なアプローチだと、人類学では言っているわけです。

なるほど!

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さて、では「存在論的デザイン」と「ヒトやモノが超えてデザインしあう関係性」は、どこが繋がるのか?

さて、ここまでで、存在論とは一体なにで、人類学がどのように存在論的転回をむかえたのかを見てきました。

しかし、冒頭で「私たちが何かをデザインすると、そのデザインしたもの自体に、私たちはデザインしかえされる」という視点でデザインを考えるのが「存在論的デザイン」なのだと書きました。

一体、どこがどう繋がっているのでしょう?

ここで、存在論的転回を迎えた人類学が、自分たち自身の前提を解体して見えてきたのが、「僕らって、人間にばかり着目しすぎなんでは?」という気づきでした。

人類学はこれまで、文化=「人がつくりあげてきたもの」に着目して、色々な文化を探ってきたわけです(こうして色々な文化があると明らかにしてきた考えかたを指して、多文化主義というようです)。

しかし存在論的アプローチによって(言葉が自然に入ってくるようになってきた!)、私たちが「文化=ヒトとヒト」だけに着目するという当たり前を問い直してみると、どうやら他の文化では例えば雨や牛、木、石あるいは精霊までもを含めて、彼らは関係性を構築しているということが見えてきた。色々な文化の「当たり前」を見つめると、精霊の存在が欠かせない、みたいなことがよくある、ということがわかってきたわけです。

そうなると、ヒトとヒトとが影響を与え合うものだけではなく、人ではない生命、モノ、自然といったものも、ヒトと相互作用しながら私たちの当たり前を作っていたよね、ということに、人類学は改めて気づきます。こう書くと至極当たり前のように思えるけれど。

この気づきとは、「ヒト以外も、ヒトに影響を与えるのだ!」という気づきでした。つまり、ヒト以外のものも、ヒトと同じように扱える/ヒトと同じような視点で見ることができる!(人類学できる!)

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ここから、アクターネットワーク理論、アニミズム、マルチスピーシーズ人類学、多元主義(Pluriverse)…みたいなワードが同時多発的に生まれてきています。

→他者に影響を与えるのは「ニンゲン」だけではなく、「モノ」も他者に影響を与えるのだ!という見方が出てきました。このようにして、ヒトもモノも、互いに影響を与え合う要素(エージェンシー/アクター)なのだ、という見方で世界を捉える理論が「アクターネットワーク理論(ブルーノ・ラトゥール)」です。

→「精霊」も僕たちに影響を与えるのだ!という見方が「アニミズム」です。また、人間以外の「多様な種」に根ざす人類学が「マルチスピーシーズ人類学(奥野克巳)」です。

→文化相対主義→多文化主義→多自然主義→多元主義(Plurarism)→多元主義(Pluriverse)の転回はちょっと僕の身に余りますが…。

文化相対主義とは「西洋的な視点を"基準に"、その他の文化を解釈しようとするスタンス」。

多文化主義/多元主義(Plurarism)とは、文化相対主義への反省から、いろんな文化があるよね、というスタンス。一方で、この多文化主義は、世界の前提となる、私たちが立つ地球という環境だったり、私たちの体、あるいは視覚、時間軸、生死といった「科学っぽい」ことは正しいよね、という前提にたっていました。つまり、「世界はひとつの同じ土台のうえに、みんな立ってるんだ」という前提にたっていたわけです。そして、その「ひとつの世界」自体が、実は「西洋的な考え」で定義されてへんか…(こういう文脈での「ひとつの世界的世界」のことを「one-world world」という言い方をするようです)。

この反省から生まれたのが多自然主義/多元主義(Pluriverse)だといってよいのではないでしょうか。つまり、根本的な意味で、私たちが立つ環境、身体、時間軸や生死への捉え方、そういったもの自体が完全に異なる世界に私たちは住んでいる、と考えるべきなんじゃないか、というわけです。

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どうやら、ここまでの「転回」全てを含めて、人類学の流れのなかでは「存在論的転回」だとされているようです。どういうことか。

つまり、存在論的転回とは「僕らの前提で解釈すんじゃなく→自分の常識を排除し、新たな概念を作り直そうぜ」的転回だったわけですが、そこから更に、存在論的に人類学をやっていると、「ヒトもモノも関わりながら社会を作っているじゃん。それを尊重しないと!!」という気づきが生まれた。

ここまでをまとめて「存在論的転回」だと呼んでいるようなのです。

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ここでやっと、「存在論的デザイン(Ontological Design)」にたどり着きました。

冒頭に立ち返っておきましょう。

「デザインしたモノによって、私たちはデザインしかえされる」という見方で、ヒト-モノを超えたアクター間の連関からデザインを捉えることを、世では「存在論的デザイン」と言うらしい。

もう少し噛み砕いて長く書いてみると、私たちが何かをデザインすると、そのデザインしたもの自体に、私たちはデザインしかえされる(具体例は上記記事を読んでください)。それが本当にたくさんのヒト(その他の生き物を含めて)とヒト、ヒトとモノ、モノとモノのあいだで起きていて、僕たちは色々なヒトやモノや生命と相互にデザインしあっている。そういうネットワークのなかに私たちは生きてるんだよ、という前提に立ってデザインを考えてみようね、ってことですね。それを「存在論的デザイン」と言います。

です。

大まかに振り返ると、

・人類学は、西洋の見方で他者を解釈するんじゃなくて、その見方自体を取っ払って、常識とか概念自体をゼロから構築する必要があると気づいた=「人類学の存在論的転回」
・存在論的に人類学に取り組んだ結果、人類学てのはヒトだけではなく、ヒト・ヒト以外の命・モノ・この世にないものといった多様なアクターが関わるネットワーク全体を研究するべきなのかも、という気づきがあった(アクターネットワーク理論)
・そのヒトやモノなど、多様なアクター同士がお互いをデザインしあっているネットワークの中で考える/取り組むデザインのことを「存在論的デザイン」という。

です。どうだろう!?

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ところで、なぜデザインと人類学なのか

ところで、なんでデザインと人類学は接近したのでしょうか?

※以降は、特にソースによらず書き散らすものです。

そもそも、デザインと人類学という領域は、極めて近い領域です。デザインには「デザインリサーチ」という領域がありますが、このデザインリサーチのアプローチは極めて人類学的なアプローチを志向しています。

いわゆるリサーチというものには、2種類の方向性があります。ひとつが統計データや社会的潮流から引用する、演繹的なアプローチ(デカい話から引っ張ってくるという意味です)。もうひとつが、対象になる一人ひとりの定性的な感覚や声をもとにした、帰納的なアプローチ(小さいものを集めて意味づけするという意味です)。

もちろん、どちらも忘れてはいけない視点ですが、デザインという領域は後者の、一人ひとりに着目したリサーチを重視してきました。いま、デザイナーの多くが依って立つ「人間中心設計(HCD:Human Centered Design)」という言葉が、それを端的にあらわしています。

そのリサーチ手法とは、インタビューしてみたり、カメラで一日を追ってみたり、一緒に暮らしてみたり…。その手法は、人類学の研究手法とかなり重複しており、以前より長らく、デザインと人類学は近接した領域であったと言えるでしょう。

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さて、デザイン領域はその発展のなかで、「未来を描く/つくる」領域を発展させてきました。

実はもともと、イタリア語でデザインは「Progetto」…つまり「Project」という言葉であらわされていたそうです。その語源は「pro=前に」「ject =投げる」Enzo Mari「プロジェクトとパッション」)。すなわち、イタリアにおけるデザインとは、まだ見ぬ未来を構想し実現していく力であるといえます。

その「未来を描く/つくる」領域を具体的にデザイン領域にひきあげたのがアンソニー・ダンの提唱した「Speculative Design」です。Speculativeとは「思索的な」「投機的な」という意味で、個人的には日本語に訳すならば「妄想デザイン」くらいに捉えると丁度いい言葉だなと思ってます(Speculative Designを提唱したアンソニー・ダンはすでにDesigned Realityに移行していると岩渕さんは言っていますね https://bizzine.jp/article/detail/4887 )。

こうした動きの中で「未来を描く」ための起点となったのが、実は人類学という領域だったのではないでしょうか。

偶然にも、人類学にもデザインにも接近していない当時の僕は「「未来の知覚」を考える」のなかで、ホピ族の「見える」ということの語義から、またリチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」や、ユクスキュルの環世界の議論を日本に紹介した日高 敏隆さんの「動物と人間の世界認識」から、「未来の知覚」を洞察できるのではないかと言っています。

正にこうした人類学的な「環境も身体も」異なる、ヒトやヒトでないものへの深い理解から(あるいはSFとの接近、という文脈もあります)未来を構想するのが「Speculative Design」だとすれば、デザインと人類学が接近することはもはや免れない未来だったことでしょう。

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また同様に、北欧デザインの文脈では、環境保護の文脈から、マルチスピーシーズ人類学への転回が見られるのではないかと思っています。

環境汚染の影響を受ける、ヒトではないモノたち、および「未来の私たち」の「声を聞く」といった発想は、存在論的転回を見た人類学が正に取り組んできた文脈に一致します。この視点から、北欧デザインの流れとマルチスピーシーズ人類学といった流れとが交わることも、必然だと言えるかもしれません。

制作論的転回/プロジェクト中心の民主主義

さて、人類学とデザインが交わったせいか、あるいは人類学の「触れない」態度への反省がうねりになりはじめたためか(大阪大学のエスノグラフィーラボ森田敦郎さんは「デザインにインスパイアされた人類学」と言っていましたが)、人類学では近年「実践的な人類学」に焦点が集まりつつあるようです。

例えばその嚆矢が、ティム・インゴルド「メイキング」などにあらわれています。

フィールドワークとして「ともに暮らす」ことだけではなく、「ともにつくる」ことを通じて理解していこうとする人類学だといいます。これを人類学者・奥野克巳さんは、上妻世海「制作へ」に触れて「制作論的転回」と述べています。

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同様にデザイン領域でも(デザイナーが「つくる」ことは当たり前ですが)、いかに使い手に対して「つくる」能力(Design Capability)をひらいていくか、ということへの着目が、主に北欧のCoDesign(協働的なデザイン)の文脈から拡がっているようです。

イタリアのデザイン研究者・Ezio Manziniは「日々の政治」のなかで、「プロジェクト中心の民主主義」という言葉を使っています。これまでの「熟慮の民主主義」…考える、議論する、投票することから、「自分でつくっていこう」という提案へ。

あるいは、イヴァン・イリイチの提案する「Convivialityのための道具」…すなわち、人々の想像力を豊かにし、人々が環境を変えていくための力を引きだすような道具(モノや仕組み)をデザインしていくことも、これからのデザイナー(専門家)の役割だと言えるでしょう。

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こうした「制作」に焦点をあてる提案が人類学とデザインの双方から提出されていることは、非常に興味深い一致です。人類学とデザインが互いに手を携えつつ、存在論的に未来を描くプロジェクトが、これからも発展していくことに相違ありません。

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※認識が間違っているところがあれば、ぜひご指摘いただけたら嬉しいです。

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参照したもの

◯<書評論文>「存在論的転回」考 鈴木赳生

◯存在論的転回とエスノグラフィー : 具体的なものの喚起力について 浜田明範

◯「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

◯デザインを「存在論的」に捉えるとは





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