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浜田省吾論①

今回はオフコースに続いて、浜田省吾さんについてお話ししたいと思います。また長くなりそうなので、何回かに分けてお送りいたします。

知っていたが聴かなかった浜田省吾

ワタクシは中学生の頃から、多重録音を行なって楽曲制作をしてきました。まぁそれは稚拙なものであったと思いますが、自分なりに頑張っていた訳です。高校生になり、そのカセットテープを色々な人達に聴いてもらう度に「浜田省吾好きでしょ?」とか「浜省っぽいねぇ~!」とか言われ始めました。もちろん、当時浜田省吾というアーティストの存在は知っていました。オフコース目当てで買っていたギターブック(GB)という月刊誌に、浜田さんの記事も毎月載っていましたし、オフコース目当てとはいえ、その雑誌はくまなく全てのページを熟読していたので、聴いたことのないアーティストでも結構マニアックに詳しくなっていたのです。しかし何故か、浜田さんのレコードを聴こうという気にはなれませんでした。

それはきっと、ビジュアルからくるイメージだったのかもしれません。『サングラスをしたロックミュージシャン』。それをワタクシは勝手に、不良性に満ちた暴走族のようなイメージを抱いてしまっていたのです。当時の「ワルの美学」みたいなものが大嫌いだったのです。それを売りにしたバンドも大ヒットしていたりして、そんな感じの歌なのだろうと勝手に思っていたのでした。

初めての浜田省吾

しかし高校1年生(1985年)のある日、新聞のラジオ番組表に「浜田省吾の新曲初公開!」と書かれていました。それはアルフィーの番組で、土曜日の夜9時から放送されているものでした。「これはちょっと聞いてみるか。さんざん浜省っぽいと言われてるからな。ラジオならタダだしいいや」と軽い気持ちでその番組を聞いてみたのでした。

新曲は「Midnight Flight~ひとりぼっちのクリスマスイブ~」という曲でした。「え~っっ!!浜省ってポップで綺麗な曲を作る人だったのか!」と驚いたことを覚えています。翌年、2枚組のアルバムが出るというので、予約して購入しました。それが「J・BOY」でした。そして大学に進学すると、同級生に熱烈な浜省ファンがいて、その彼にカセットテープを借りまくり、浜省パワープレイが始まったのでした。

バンド「愛奴」からソロへ

浜田さんは元々、地元である広島の仲間達と結成された「愛奴(あいど)」というバンドのドラマーでした。愛奴は1974年、当時人気絶頂だった吉田拓郎氏のバックバンドとしてプロ・デビューを果たします。そんなことになるということは、さぞかしテクニックに優れたミュージシャン達だったのかと思われますが、実はそういうことではなく、バンドを育てるために、当時CBSソニーのディレクターだった蔭山敬吾氏が拓郎氏に話を持ち掛け、拓郎氏が「ワシが育ててやる」ということで決まった話でした。蔭山氏と拓郎氏はアマチュア時代の広島フォーク村からの旧知の仲、浜田さんは高校生の頃にその広島フォーク村のイベント出演していたりして、蔭山氏と知り合いだったのでした。バンドのデビューに関しても、浜田さんが蔭山氏に話を持ちかけ、新人ディレクターだった蔭山氏の最初の担当アーティストとなるのでした。

愛奴は1975年に「二人の夏」でレコードデビューします。それはビーチボーイズを彷彿とさせる、爽やかな夏らしいとてもポップな曲でした。作詞作曲は浜田省吾、編曲が愛奴ということになりますが、リードボーカルはギターの町支寛二氏、浜田さんは後半のオブリガードを歌うのみで、ボーカリストという感じではありませんでした。それはドラマーであるということもあったのかもしれませんが、ボーカリストとしての自信がそれほど無かったからとも聞きます。しかしいずれにしても、浜田さんはバンドのアルバムで全12曲の作詞、6曲の作曲を行ない、バンドの核として存在するのでした。しかしその数ヶ月後、浜田さんは脱退してソロになってしまいます。「ソロになります」とは言っても、売れていたバンドのメンバーがソロになるのとは訳が違います。当時、ソロアーティストとしての需要があったはずもなく、売れていないバンドのメンバーが数ヶ月足らずで抜け、ソロになるということは通常ではあり得ません。では何故浜田さんはバンドの成功を待つことなく、脱退に至ってしまったのか。それはきっと、プレイヤーとしてのミュージシャンであるよりも、ソングライターで在りたかったのでしょう。歌を作るということを差し置いて、ドラムの練習をしなければならないということは、考えられなかったのではないでしょうか。

しかし、脱退はわだかまりや遺恨を残すものではなく、バンドのメンバーも納得の上でのことだったようです。ひょっとしたら、ドラマーとしての浜田さんの力量では、バンドを続けていくのは難しいとメンバーも思っていたのかもしれません。実際、浜田さんがまだバンドにいた頃の後半では、ドラムにサポートメンバーとして岡本あつお氏が加入し、浜田さんはボーカルとパーカッションという形になりました。正式なドラマーがいたのに、サポートメンバーをあえて入れるというのは、それ相応の理由があったからでしょう。

結局、愛奴は浜田さんが脱退した後、1年ほどの活動で解散してしまいます。しかし、ギタリストの町支寛二氏は今もなお浜田省吾バンドのギタリストとして活動を共にし、ベースだった高橋信彦氏は浜田さんのマネージャーを経て、所属事務所である株式会社ロードアンドスカイの代表取締役社長になっております。他のメンバーとも事あるごとに共演を果たしており、バンドが解散しても仲間としての関係は続き、形が変わってもそれぞれの絆は今も途切れることなく続いています。人としてとても素敵なことですよね。

所属事務所

愛奴が契約したレコード会社はCBSソニーでしたが、ソロになった浜田さんも同じくCBSソニーと契約し、ディレクターも同じ蔭山敬吾氏になりました。ソロになったとは言え、環境はほぼ変わらなかったと言えるでしょう。所属事務所はカレイドスコープ。当時ホリプロダクションの中にあったセクションです。ホリプロと言えば、今もなお芸能界を代表する大きな事務所です。メディアに殆んど出ない浜田さんの事務所が、芸能界を代表するような存在のホリプロであったとは、大きな驚きでした。それを知ったのは中学生の頃、まだ浜田さんの音楽を聴く前のことです。GBの付録にあった楽譜に原盤権を示す記述があったのですが、そこに「1982 by Hori pro」と書かれてあったのです。当時の音楽業界は、芸能界の流れとは別のところにありました。フォークソングから始まった日本のポップミュージックは、独立独歩の精神にあったのです。エレックレコードやURCなどはインディーズ・レーベルの走りであり、大瀧詠一氏や矢沢永吉氏は音楽ビジネスの先駆者であります。当時で言うニューミュージックやフォーク、ロックのミュージシャン達は、既存の芸能界とは異なる世界を作り上げ、テレビ発信ではなく、レコード制作とライブ活動を中心とする世界を築いていったのでした。

しかし、ホリプロや渡辺プロダクション、田辺エージェンシーといった大きな芸能事務所にも、所謂芸能界とは違う流れもありました。当時の言葉で言う「カウンターカルチャー」という文化です。それはアメリカのヒッピー文化の流れを汲む、何にも縛られない若者の新しい文化のことです。ホリプロはそうした文化にも目を向け、新しい世界を築こうとしていたのでした。

考えてみれば、ホリプロ創業者の堀威夫氏、渡辺プロダクション創業者の渡辺晋氏、田辺エージェンシー創業者の田辺昭知氏の3氏とも、元々はミュージシャンです。ミュージシャンの気持ちは痛いほど分かるはずですし、本来音楽が好きな人達です。音楽という文化を蔑ろにする訳がありません。そうした中で、浜田さんの音楽は育てられていくのでした。

ブレイクするまでの間

浜田さんの初ヒットは、1979年のシングル「風を感じて」だとされています。しかし、確かにヒット曲ではあるのですが、チャートで言うと最高位25位、売り上げ枚数は10万枚という、当時の表現で言うところのスマッシュヒットと呼ばれる中程度のヒットでした。それでもそれまでと比べると、比較にならないほど売り上げが大きかった曲だったので、ヒット曲扱いになったとのことです。浜田さんは意外にもシングルヒットは少なく、アナログレコード時代では「風を感じて」以上に売れた曲はありませんでした。

アルバムでは1979年の「君が人生の時」で初めて4万枚を超え、そこからジリジリとチャート順位と売り上げ枚数を伸ばし、1984年の「Down by the Mainstreet」でオリコンチャート2位、1986年の「J・BOY」で1位を獲得するのでした。

ライブも順風満帆に集客出来ていた訳ではありません。地道にライブ活動を続け、少しずつ少しずつファンを増やしてきたのです。それはアルバム「Down by the Mainstreet」に収録されている「A THOUSAND NIGHTS」で歌われているように、「歌えるところならどこだって歌った」からです。また、メロディーメーカーとして高く評価されていたことから、ホリプロに所属していた和田アキ子氏、山口百恵氏などに曲を提供したりもしていました。そうして何とか食いつなぎ、自分の世界を作り上げていったのでした。

今回はここまでにします。また次回も読んで頂けたら嬉しいです。


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