79.8:47 「選ばれる」人は「選んで」いる
折角の晴れなのに黄砂と花粉のダブル脅威で窓も開けられない。
桜もまだまだだし、なんだか不思議な春になっている。
けれど、いよいよ明後日から四月。
日本人にとっては、新年度という節目。
私も在宅ながら新たな気持ちになるだろう。
良い1年にしましょう。
落ちた…。
ある仕事の採用に落ちてしまった。
「協議した結果今回は見送る」と書いてあったが、きっと機械的にさっさと落とされたのだろう。
実は、その仕事をすごくしたかったわけではない。
以前採用された際、実際に仕事をしてみるとかなり疲弊した。
その割に対価は低かった。
まあ、それは仕方ない。
相場が分かっていて応募したのだから。
それ以上に、仕事の「意義」のようなことろに小さな疑問を持ってしまった。
果たしてこの仕事は社会の役に立つのだろうか。
そんなことが頭の片隅にありながらもこなした。
引っかかりはあったが、今回もスケジュールや家計を検討をして応募した。
しかし、上記の結果であった。
私はどこかほっとして、どこかショックだった。
本当はやりたくないことを、理由をつけてやろうとしていた。
だから、やらなくてほっとした。
ただ、選ばれなかったことで、自分という人間の価値が無いような気がしてショックだった。
人生は難しい。
生きていると、このように妥協した結果、安堵したり、傷ついたりすることがなんと多いことか。
「選ばれる」ことで自分の価値を見出そうとしていることに問題があるのかもしれない。
若い方たちは、明後日から新社会人という人も多い。
就職活動という「選ばれる」イベントを乗り越えて、新年度を迎えるのだろう。
ただ、本当に「選ばれた」人は、実際には「選んだ」人なのではないかと思う。
私はただ「選ばれる」ことだけを目標にして、生きた時期があった。
それでは自主性もリーダーシップもなく、当然選ばれなかった。
自分が「選べる」人間になってこそ、選ばれるのだろう。
言葉遊びのようだが。
それを最近は忘れていたようだ。
だから今回のことでショックを受けたのだ。
やりたくないのに応募する時点で、きちんと「選べて」いなかったなと反省する。
ただ人生に妥協は必要であるという意見もあるだろう。
苦しい思いをしながらも必死で生きている方もいる。
妥協の連続なのかもしれない。
やはり人生は難しい。
答えはない。
ただ、私はきちんと「選べる」人間であろうと改めて感じた。
こういった、不採用の経験からも学べることはあるのだなあ。
少しは成長したのかもしれない。
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