お米農家がお米をあげる代わりに大根農家から大根をもらう。

テレワークになってよかったことは休み明けのギャップが少なくなったことかもしれない。日常の流れの中に仕事がある感じだから、「あー、明日から仕事かぁー」みたいないわゆる「サザエさん症候群」みたいなものは減った気がする。もちろん、完全になくなったわけではないけれど。

満員電車で出社していた頃は、出社している間は他人に何かを与えるための時間、出社していない時間は自分のための時間、というくっきりとした線引きがあったような気がする。でも、本当だったら、仕事をしている時間だって「自分のための時間」だし、出社していない時間だって「他人のためになるように準備・勉強している時間」ということもある。「ここからここまで」みたいな線引きをされている方が不自然だったんじゃないかなぁと思う。テレワークになってから、その辺の線引きがこれまでよりシームレスに流れていくような感じがしていて、そっちの方が本当は自然で、これまで無理をしてたんだなぁ、と思ったりする。

結局、その「かっちりとした線引き」が必要なのって、「時給」という概念が存在するからだと思う。

そもそも仕事って、得意なことを生かしての助け合いでしかないんだと思うんだよね。お米農家がお米をあげる代わりに大根農家から大根をもらう、それでいい。必要なければ必要な人のところに回すように伝えればいいし、だからってお米を分け与えないなんてことしない。得意だからやっているだけで、それを必要としている人がいるのであれば手を貸す。それだけの話。

このやり取りの間に本来「時間」なんて概念は必要ないはずなのに、たぶん、どこかの利己的な人が「オレはこんなに時間をかけているのに、あいつはこれしか時間をかけてない」とか言い出したんだろうな。それはあなたが「得意じゃないこと」をやっているだけなんだから、得意なことで恩返しをすればいいんじゃない?っていう話。

「部屋の整理をしてくれてありがとう、代わりにご飯食べて帰らない?」って、そういうのでいいんじゃないかなと思う。

ほんと、お金という概念がなくなって、ただの助け合いになればいいのになぁ、とか思ったりすること…あるよね?

…ないか(笑)

#エッセイ  #コラム #哲学 #のようなもの

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