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平日はやる気があったのに休日はなくなる現象について

 平日は何かと忙しいです。毎日同じようなルーチーンの中で色々なことを裁きます。学生ならば部活や勉強、社会人ならば仕事と家事、主婦(主夫)ならば家事や育児といった形です。そんな平日に思うことがあります。それは「時間ができたら〇〇をやろう」ということです。〇〇は今後の自分を高めることであったり、前々からやりたいと思っていたことです。たとえば英語を話せるようになりたいから、英語の勉強しようと思ったり、ここの料理が美味しいらしいから、旅行して食べに行こうといった形です。平日に休日の時間ができた時の想いを温めます。時間ができたら絶対にやるだろうと疑いません。平日がこんなにも忙しくあれこれさばいているのだから、そのノリで取り組めばできると思えます。できることしかイメージできません。

 しかし休日になると平日に抱いていた気持ちはどこへやらといった形になります。不思議とやる気が出ません。平日にあんなにも心ときめかせていたのに、ベットから出られません。そもそも起きる時間が普段より遅いです。平日は午前中に色々なことができていたのに、休日は気づけばもうお昼です。今から何か行動起こしても遅いかといった形で、その日は何か取り組むのをやめます。そうして無理なくできるコンビニに行ったり、近くのスーパーに行ったり、あとは動画を見たりゲームをやったりグタグタします。重い腰をあげてキラキラしていることを取り組むことはできません。エネルギーを消費しない「無」になれるものをやることで癒されます。

 私は平日はやる気があったのに休日はなくなる現象に悩まされてきました。若い頃は将来のためだと気合を入れて何か取り組んだり「えいや」と決断して勢いで物事を推し進めることもありましたが、歳を重ねると共に難しくなりました。特にサラリーマンになってからは、ずっとこの先も続く仕事を考えると無理をすると来週に響くと行動をセーブするようになりました。無理をしなくなったのです。しかし平日は休日になったらこれをしよう、時間があったらどんなに良い感じの生活ができることだろうと思ってきました。そうして休日になると決まって平日に思っていたやりたいことはできず、どこかダラダラした日を過ごすことが多くなったのです。理想通りに行かない、自分の人生はこんなもんなのかと時には悩みました。この永遠に続くような仕事をずっと行っていくのでいいのだろうかと思いました。時には物事を真面目に捉えすぎているかなと気楽に過ごすこともありましたが、決まって不安が押し寄せたりこのままでは良くないと思える感覚が押し寄せました。

 私は長いこと理想と現実のギャップに悩ませれてきましたが、この解決策である「休むこと」に気付きました。特にアタマとカラダを空っぽにすることが大切だということを発見したのです。

 私はこれまで理想や目標を掲げてきました。それは一見、人生が上手くいっている人が口を揃えて目標や理想の大切さを主張していたからです。美しいボディラインを手に入れた人は毎日の生活で運動することを目標にすると良いと語っていました。何かと尊敬されがちな医者や弁護士になった人も今日できることを狙ってやるといいと話していました。会社を自分で立てた人も自分が何をしたい人なのか明確にイメージすることと語っていました。私も成果を出した人にならいました。なりたい自分をなんとなくイメージして、たとえ着手しようとした時にやる気がなくても、ものすごく抵抗感があっても、イヤイヤ取り組むようにしたのです。

 私の場合は理系の研究者となりました。この姿は子どもの頃の私から考えれば、遥か遠くの世界でした。私は絵を描くことや動物と触れ合うことが好きでした。野原でシロツメクサを見つけては冠を作るような子どもでした。折り紙でトトロを量産するような子どもでした。数学や物事を分析してまとめるようなことを好んでやっていませんでした。しかし成長の過程で周りの意見を参考にしたり、本で得た知識などから理想をイメージするようになりました。数学や物理も最初はチンプンカンプンでしたが、できるようにしました。働き始めてからも、世の中にまだない最先端のものを生み出す努力をしてきました。常に理想や目標を掲げて歩いてきたのです。

 結果的にある側面から私の人生を見れば成功している形となりました。話が通じ合う人に囲まれ、その関係も良好でした。ゴルフに行こう、魚釣りに行こう、一緒にマラソンをやろうと色々な遊びに誘われました。周りは私に親しみを感じてくれていて、私も一緒にいて楽しいと思っていました。十分な給与も与えられ、仕事ではある程度、自由にやっていい環境でした。自分でテーマを決めて新しいものを作れる環境でした。有給はもちろんいつでも取れるし、年間休日日数も多く土日休み、祝日休みで、会社の定めた不思議な3連休も存在するような環境でした。そのため1ヶ月に1回は必ず3連休がありますし、夏季休暇(お盆休み)も1年のどこで取ってもよかったため、シーズンをずらした旅行などにも行きやすい環境でした。社食もついており、健康的で安く、会社の福利厚生の一貫で半年で7万円程度のものを割となんでも購入できました。購入せずとも将来のためにそのお金を積み立てることもできました。ボーナスもかなり良く、会社の労働組合の調整により3ヶ月以上のボーナスは約束されているような風土でした。これ以上の何を求めるのだろうというような環境でした。風通しもよく、フレキシブルなその組織は、探しても石を投げても見つけられるような環境ではありませんでした。私は年齢に応じてリーダとなって周りを牽引していくようになっても、チームの関係はとても良いものでした。皆んな得意、不得意はあるものの、自分の得意なことで活躍しているようなチームでした。本当に絵に描いたように居心地が良くありつつも、活発な意見交換もあり妥協しない形がそこにありました。仲がいいものの馴れ合いはなく、成果を出しつつけていました。

 それでも私は平日はやる気があったのに休日はなくなる現象に悩まされていました。今思い返せば原因は「忖度」と「忙しさ」です。忖度とは人の気持ちを推し量ることです。私は大企業の組織で働いていたので、自分の身近な環境は良くとも、全体で見れば会社の方向性がありました。会社には様々な人がいます。時には政治や厄介ごとに巻き込まれることがあります。仕事の内容を自分で決められるとは言え、会社の方向から大きく外れることを取り組むことはなかなか認められません。しかし新しいものを生み出し続けるにはこれまでやっていなかったことに着手した方がいいこともあります。それを周囲に認めてもらうことに大変な労力を要したのです。次に忙しさですが、労働組合や会社のルールにより1日10時間以内の労働時間と規定があり、忙しさにも時間には限度がありました。しかしその時間内にさばく仕事量が大変多いのです。多ければ誰かに共有したり、新しく人を入れてもらうなど様々な方法がありますが、私の仕事量はそれでも多いものでした。そうして私は平日クタクタになるまで働き、休日にはなんだかやる気が出ないという形になっていたのです。

 仕事に励むことは、どんどん私自身の能力も上がり、やりたかったことが実現でき、まさに理想や目標を達成するあり方でした。そんな中で私は恵まれた職場を退職して無職になることを選択しました。それは「休むこと」によって新しい道が切り開かれることを知ったためです。

 理系の研究職の中には私と同じような忙しさ、むしろそれ以上であっても、いつもイキイキして子どものような人がいました。プライベートも充実してマラソン大会に出ればオリンピック選手に続いて優勝するようなタイムを誇っていました。他にもバイオリンを始めてそれをプロのように弾けるようになっている人もいました。その人たちに共通していることはエゴがないことでした。つまりマラソンで優勝しよう、プロのようになろうとしていないのです。目の前のことを楽しんでいたら、気づけばその形になっていたのです。大人だけれども子どものような人は皆、同じようなことを口にしました。それは「みんな脳の使い方がわかっていないんだ。」ということです。 

 私はこれまで2回転職しています。つまり3回職場を変えたことがありますが、どの職場にも子どものような人はいました。違う会社であるのにもかかわらず、目をキラキラさせた子どものような人がいて、私に脳の使い方を教えてくれました。私の場合は理系の研究というものを主な軸として頭の使い方を享受されるに至りました。それは要点を掴むと「アタマとカラダを空っぽにすると良い」ということだったのです。それは手段にするならば「休むこと」だったのです。

 このような経験から私は「不安な人」が「安心している人」になるメソットを確立するに至ります。恵まれた会社を退職してまでも、この情報を発信することに時間を使っています。平日はやる気があったのに休日はなくなることを解決するために「休む」だけでいいならば、皆んなやってみていることでしょう。しかしそれでも何故かうまくいかないのが人生です。気づけばなんだか大変な環境に戻っているのです。

 キーワードは「休むこと」「アタマとカラダを空っぽにすること」「エゴ」、「執着(囚われ)」です。結論を言えばより満たされるようになるためには「エゴ、執着、囚われをなくす」ことをすればいいのです。その手段が「休むこと」であり、休んだ時の状態がアタマとカラダを空っぽになっているという形です。

 しかしこの説明だけではさっぱりだと思うので本にしました。本にしたものの筆者としてはまだまだ分かりやすくできるなと思っています。主張は同じなのですが、切り口を変えて誰かの気づきになるようにと試行錯誤しています。人によって「これは自分でも経験があるな、知ってるな」と思えることは様々です。そのため視点を変えて、表現を変えて伝えることを続けています。何よりも私自身がより満たされるために。


 

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