見出し画像

衝動買いやコレクションをする人

 何かと衝動買いをしてしまったり、収集癖がある人がいます。外に出かければ「秀逸だ」を思えるものを買います。他にも時間があるからとマッサージやネイル、髪を切るなどする人もいます。似たようなものだけど質感が異なったり、色味が異なるものを集める人もいます。中には筋トレをして達成感を得ようとする人もいます。

 これらの人は実は「自分の人生に対してどうでもいいこと」に熱を出しています。それでは「どうでもいいこと」とはどう言うことなのでしょうか。「買い物やコレクションは好きでやっているからいいじゃん、放っておいて欲しい」と思った人は「どうでもいいこと」をやっています。認めたくなくて、不愉快になるのです。

 対して「自分の人生に対して大切なこと」に熱を出している人がいます。「大切なこと」に熱中するためには自分の身を守りたいという欲求に打ち勝って、自分の中での挑戦をしている人です。たとえばお笑い芸人の人です。お笑い芸人になろうとすると、最初は自分のことを誰も知らないですし、軽視されるばかりです。仕事の話をもらえたとしても寸志です。雀の涙ほどしかありません。到底、都会でひとり暮らしをしながら仕送りなしで生活できる額ではありません。そうしてアルバイトを始めるわけなのですが、お笑い芸人をできる時間との割合に悩みます。精を出したいことはあるけど、生活のために働く必要があるという形にです。

 条件が悪くとも子どものように目を輝かせて生活している人がいます。「安全欲求」に従うのではなく、「成長欲求」に従った人です。自分の興味があることを取り組んでいるので、試行錯誤の連続です。うまくいくこともいかないこともあります。仮に波に乗れたとしてもこの波はどこまで続くのかと悩む時もあります。それでも先の見えない世界の中でもイキイキと過ごしていくのです。

 この選択をできる人は「安心している人」です。「不安な人」ではありません。「不安な人」は自分の身を守ろうとします。条件の良いところで過ごしつつも、変わるのが怖いので衝動買いやコレクションをすることで「成長したい」という欲求を満たそうとします。常に心に蓋をしているので、自分が本当に求めていることに気がつくことができません。気がつけるのは脊髄反射でピンとくるものです。たとえば買い物に行っていて良いものを見つけたり、何かのシリーズを集めることで達成感を得ようとするのです。筋トレなども同じです。やれば成果が出る、依存的な形になりやすいものです。「安全欲求」に従うのです。

 「衝動買い」や「コレクション」を否定しているわけではありません。発散することで楽になる気持ちもあります。集めることで得られる情報もあります。「衝動買い」や「コレクション」をする人の特徴としては「マイナスなことがダメだと捉える性質があること」です。たとえば愚痴を言うことをよくないと言います。クヨクヨしていても仕方がないから、気持ちを切り替えて気分良くいた方がいいじゃんと言います。確かに正論ですが、時には気持ちがなんだかどんよりする時だってあります。なんだか無気力になる時もあります。生き物のことを考えてみてください。駅前にいるハトはトコトコと歩いてエサを探している時もありますし、日向で日光浴しながら寝ているときだってあります。ペットでも同じです。何か精力的になったり休息したりを繰り返します。どこか調子が出なかったり、受動的になることもあるのです。自然な流れです。マイナスもプラスに変わる状態の一つであるので、ただ受け入れていればいいのです。しかし「不安な人」はこれができません。そのままで良いと思えません。ありのままの自分を受け入れることができません。

 「衝動買い」や「コレクション」をするのは「不安な人」で自分の人生に対してどうでもいいこと」に精を出す「安全欲求」に従ってます。ここでは安全欲求が悪いと言っているわけではなく、そのような状態に入っているということです。自分の心に蓋をするようになったのは「避けがたい困難」があったためです。学校で試験の点数が取れないというだけで、どこか仲間外れにされました。点数が良い人だけ褒められて自分に対しては周りにエネルギーが割かれませんでした。別に勉強ができることは手段の一つであり、できることが多いだけであるのに、それが少ないだけでよしとされませんでした。他のできること、たとえばゲームが強くて仲間をリードしながらみんなを嬉しい気持ちにさせている自分は理解されませんでした。別にゲームも勉強も使っている頭や工夫の仕方は変わらないのに、周りの固定概念から良しとされませんでした。周りの囚われによる「避けがたい困難」に直面してきたのです。

 「避けがたい困難」に直面してきた人はゆっくり休むことです。今、自分が「安全欲求」に従って「衝動買い」や「コレクション」する自分がいますが、「アタマとカラダを空っぽ」にすることです。すると意欲が湧いてきます。何かやってみたいなという意欲です。「不安な人」のこの意欲は初めのうちは「安全欲求」に従っています。自分はこのままで大丈夫と思えていない心の状態が引き起こす意欲に従うことになります。「衝動買い」や「コレクション」をこれまでのようにするときもあります。それでも大丈夫です。その意欲の中にはたとえば買ってきた服を吟味する、コーディネートを組むなど、自分だけの自分のための時間を取ることに繋がります。これまでは買って満足していたものを、自分のために調整してみようとする時間を取るようになります。コレクションを買ってきても、もっとかっこよくするためにはどうしたらいいかと証明やディスプレイをこだわるようになります。

 自分のための調整や追求を始めている状態こそが「安心している人」で「成長欲求」に従っている状態です。この状態は周りから見れば変わっている状態です。どうしてそんな変なところに気になっているんだろうという形です。しかし本人は夢中です。先がどうなるかわからないけれど、やってみているという状態です。取り組んでいる間には「狙い」はないけれども「夢」はある状態です。何かの作法に乗っ取ってやろうとせず、自分なりにやってみようとします。瞬時に「夢」の方向に向かっているか振り返り、再度、思考や行動に反映させて動きます。いわゆる「フロー」に入っている状態です。挑戦と能力のバランスが釣り合っている時に、周りの音が聞こえなくなるくらいの集中した時間を過ごしています。長い時間も後から考えれば一瞬な時間を過ごしています。「自分の人生に対して大切なこと」に精を出す自分が現れます。

 「不安な人」が「安心している人」になる姿をイメージすることはできません。なぜなら「不安な人」には「エゴ」があるからです。固定概念とも言えます。何かの軸があって、それに沿ってないと良い、悪いといった判断をします。軸は周りから言われた言葉や態度で構成されています。時には道徳として教えられたこと、当たり前として教えられたことが今の「エゴ」として成り立っています。「エゴ」は行動や思考をワンパターンにします。心を窮屈にします。押さえ込むその力はどんどんと「安全欲求」に従おうとする力に変わります。押さえつけられて行き場のない罪悪感、劣等感、自意識過剰なそのキモチは怒りや憎しみと言う形で心の中に降り積ります。どんどんと執着を強くします。執着は何者かを正しい、良いとする理想を掲げます。夢ではありません。そこには「そうなれなければいけない」という脅迫概念じみた考えがあります。「安心している人」はエゴがないので変わっているところにこだわります。「不安な人」が何かのフレームワークの中で考えているその外側の所に気づくことができます。

 「安心している人」になるとより満たされるようになります。結果ではなく過程に満足するようになります。一瞬一瞬に幸せを感じます。安らぎを感じます。何か自分の気になるものを追求しているだけでユニークな状態になります。個性的でこれはあの人がやったんだなとわかる状態になります。するとなぜだか同じような人に囲まれます。「安心している人」です。「安心している人」は人に対して無頓着なので、今自分がしていることを話しても引いたりしません。相手も夢中になっていることがあるので、その話をします。分野ややっていることは違えど、同志に出会うことができます。「安全欲求」に従う「不安な人」はその状態に憧れます。なぜかイキイキして楽しそうな姿に嫉妬します。

 「安心している人」はユニークな表現をして、それでなぜかお金を稼げるようになります。人から認められたり、求められたりする日が来るのです。「安心している人」になったとき、「不安な人」と能力は対して変わりません。「不安な人」は誰しも「安心している人」になれる素質を持っているのです。しかし「不安な人」はそう思えません。何か別の何者かにならなければ成功しないと思いがちです。しかしそうではないのです。「不安な人」の状態でじゅうぶん「安心している人」になれる状態であるのです。「安心している人」になるためにはただ休息を取ればいいのです。休むことが衝動買いやコレクションをする自分から、なぜか自分から取り組んで新しいものを表現している自分に変わっています。以前は自分には縁遠いと思っていた世界が身近に来るようになります。無理をせずとも豊かに暮らせる日が来るのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?