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満たされる人になるには「息を吸うようにできること」をする

お久しぶりです、と書き出しを始めたので、誰かに向けて気持ちを書きたいテンションなのかな?と思いつつ、今の私を気ままに表現していこうと思います。書き出した結果「満たされる人になるには「息を吸うようにできることをする」のがいいよ、という話になりました。

1.より満たされる世界線で暮らしてみて

今の私は本当に満たされています。常にご機嫌です。嫌なことをするということもありません。これがどんなニュアンス感なのかを述べると、落ち着いているという感じでしょうか。誰かと雑談すると「そうなの」と「うんうん」と「わかるなぁ」とリアクションする感じです。「自分はこうだよ!」とかアピールもしませんし、相手に対して「こうした方がいいんじゃない?」とか言うこともありません。ましてや「それだからダメなんだよ」なんて相手を否定する感じもありません。

ご機嫌な世界にいると、こんなにも物事がうまく進むんだなと思います。まず、無理にすること、というのがありません。朝眠たい時は眠ったまま、布団の中で過ごします。お腹が空いてないのに、休み時間だからエネルギー摂取のためにご飯を食べとかないと、ということもありません。誰かにこれができないとダメ、あれをやれ、なんて言われることもありません。サラリーマン時代の生活に密接にはびこっていた「ちょっとした無理すること」がありません。その結果、何かと物事がうまく進みます。予想外な方向でありつつも、なんか上手くいくのです。

最近はサラリーマンだった時の感覚を思い出すことが難しくなってきました。特に思い出す必要もないので、特別思い出したりもしませんが、振り返ると、悪循環の中にいたと感じます。
■結果を出したいと思う(満たされたいと思う)→頑張る(無理をする)→疲れる、周りから色々頼まれる/任される→仕事量が多くなる→余裕がなくなる→疲れる→なんだか満たされない→■結果を出したいと思う(満たされたいと思う)….
というカタチです。■で表現した私の何かしらの願望、エゴ、期待、希望….それらが悪循環をもたらしていたのです。欲求不満が更なる欲求不満を呼び、最終的には虚無感、無気力感、衝動性というところに繋がっていたのです。無理をすること、無理をして疲れきるということに繋がっていたのです。

今は全てに余裕があります。時間に余裕があります。置かれている環境も恵まれており、好きな人に気ままに会ったり、好きなことができます。お金だって好きに使えます。使う時間があります。好きなことをしていいのです。思いつく限りの全てのことで余裕があるなぁという感想を抱きます。しかし、そんな恵まれた余裕のある状態でも、最初は戸惑いました。この状態に慣れなくて、働いていた時よりも逆にすり減っていたのです。それは私のこのnoteを読めば察することができるでしょう。何かカテゴライズしたり、ラベルを貼ったり、自分の意見を述べたりと、ガサゴソと動いてみています。その在り方、発言は極端です。棘があります。今の私だったら、別の表現をするなと思えます。「世の中はこうである!」みたいなざっくりした見解は変わりませんが、表現方法が異なるかなと思います。かつての私のように、誰かの心がざわつくような表現はしないのではないかと思うのです。

好きなことをしていれば大丈夫と私は思っていました。それはサラリーマン時代に人間観察の結果です。(周りまわって、この考えは満たされた今でも変りません。真実だと思います。)社会に出てから出会った、年齢や取り組んでいることも異なる人たちを間近で見て、満たされた人と何か余裕のない人を攻撃したりする仮面をつけた人を比較して、「好きなことをしていれば安心した人になれる」というエチカを持っていました。哲学を持っていました。信念を持っていました。これは表現を変えれば宗教とも言えるかもしれません。大して根拠はないけど、信じていたのです。すがっていたのです。自分も仮面をつけた人から満たされた人になれる、という、希望、期待、願望…私の切実な願いです。そんな切実な願いの中、私は全てに余裕のある環境ですり減っていました。なぜか無理をしていたのです。

私は紆余曲折の末、満たされる世界線で過ごせるようになりました。満たされる世界線で過ごせるようになったのは「無意識レベルで無理をしなくなった」ことが鍵だと思います。サラリーマンを辞めてこのnoteで発信を始めた当時、好きなことをしていいのに、自由に行動を選択していいのに、なぜか無理をしている私がいました。しかし当時の私自身はベストなことをしていると思っています。自分の哲学である「好きなことをしていれば安心した人になれる」という信念を体現しようと、自分の好きなこと(無理なくできること、自然にできること)を行って不労所得を得ようとしたのです。自分と生活のバランスを取ろうとしていました。(サラリーマンを辞めた時は貯金はありますが、いつかは貯金が尽きてしまうので、お金を得られる仕組みが何かしら必要だよね、と思っていたことによります。)そうしてアレコレやってみたり挑戦するのですが、無理をしていました。本を出版した時だって無理をしました。新しいコンテンツを自作した時だって無理をしました。「結果を出さなきゃ」「稼がなきゃ」「余裕のある在り方にならなきゃ」そんなとめどなく湧いてくる焦りの想いが私を無理させていたのです。この在り方は不安な人の特徴でまとめた通り、「没頭」が主な過ごし方をしていたと思います。休息しないのです。休み方がわからない、気付けない、という表現の方がニュアンス近いかもしれません。とにかく休むことができず、奮い立たせることでしか自分を動かすことができず、無理をしていました。

自発的な行動にも2種類あると思います。狙いをつけて動く「行動」すること子供のように気づいたらカラダが勝手に動いていた、というような「行為」で動く状態です。これらは「え?この人同じこと言ってない?」と思うかもしれませんが、全然違います。全くの別物です。「行動」の方は多くの人が無意識レベルでやっている動きです。大人になると全ての時間を「行動」で埋め尽くしている人もいるのではないでしょうか?何かのために、目的があって動くのです。「海外に行きたいから英語勉強する」とか言って勉強する人なんかは、一見ポジティブで「なんかいい感じの人」と思うかもしれませんが、今の私から言わせれば、「仮面をつけた人」です。「目的」、「狙い」、「期待」、「エゴ」などが紐づくような動きをしている人は不安な人です。満たされていない人です。何か欲求不満がある人です。「行動」は「仮面をつけた人」、つまりは「不安な人」がとる動きなのです。対して何か狙わずして、気ままに物事をやっている人がいます。「この前アメリカから来た人と話して、なんか英語で話すことになっちゃったんだ」なんて話している人は「安心した人」、つまりは「満たされた人」です。無理をせずとも英語が使えるようになります。文法や発音がめちゃくちゃでも、なんか伝わります。相手も自分もなぜか笑ってます。伝わってないけど伝わっているのです。狙いなく、成り行きでやってたこと、なんかは「行為」です。その一瞬、一瞬が更新されていきます。その時に夢中になっていくうちに時間があっと言う前に過ぎ去っていきます。とにかく楽しいです。耳も赤くなって夢中になります。まるで子供が原っぱを走り回ってた時のように、その一瞬一瞬の出来事に夢中になってます。振り返れば、それはご機嫌な状態です。しかし当の本人は自分がその時に「あ、自分、今、ご機嫌だな」なんか考えません。そんな想いも湧いてきません。何だか楽しく過ごしていた結果を後から振り返った時に「ご機嫌だった」というカタチです。

長くなりましたが、余裕のある環境に身を置いても、はじめのうちは無理をしたのが私でした。「行動」していたのが私でした。それがだんだんと成り行きで「自分のやりやすいものをやっちゃう」というループに入り、結果的に「行為」で生活の全てが構成されている世界線で過ごすようになったのです。今振り返れば「ご機嫌に過ごしているなぁ」というカタチです。自発的に動くにしても狙わないあり方の「行為」を続けることで、常にフローに入るような生活をするに至ったわけです。

2.「生きにくい」と感じている人がどうすればいいか?

満たされて変わったことがあります。それは一瞬で「仮面をつけた人」つまりは「不安な人」を見抜けるようになったことです。逆に「安心した人」つまりが「満たされている人」を見抜けます。満たされた世界線で暮らしていると「仮面をつけた人」とは適度な距離を取るなと思います。言い換えれば私からは近づかない、ということです。LINEなどで連絡が来たとしても、社交辞令程度にとどめます。深く関わろうとするアプローチはしません。なんとなく思うのですが「類は友を呼ぶ」とはこのことで、「仮面をつけた人」は一生、気づかないまま、ハードモードな人生を選び続けるのだと思います。それが本人が落ち着くところですし、「無理をする世界」しかないと思い込んでいるのです。その結果、余裕がなくなり、何かで鬱憤を腹そうとします。人によってはマウントかもしれませんし、娯楽に走ることかもしれません。何かしらのカタチで欲求不満を解消しようとするのです。「生きにくい」と感じているカタチから脱出したくてたまらないのに、「生きにくい」カタチに戻っていくのです。その戻っていくのを止める役割ができる「満たされた人」は人は変わらない、変えることができない、自分で気づかないと変わらない、と悟っているので、この戻っていく人の行動を制限することはありません。そっと見守ることしかしません。仮に「生きにくさ」を感じている人が「満たされている人」に救いの手を伸ばしてきたとしても、適度な距離を取ります。これは好きだから、嫌いだから、とか感情でそのような判断をしているわけではありません。「人と適切な距離を取っている」というところです。それ以上でも以下でもありません。相手が自分に何か期待して近づいてきたら、それは難しいかなと、ただ事実を示しているまでです。あくまでも相手に無頓着なのです。

「生きにくい」と感じている人は「無理をすることをやめる」ことです。これに尽きます。しかし私自身が不安な人だった、無理をする人だったからこそ言えることですが「無理をすることをやめる」ことは難しいです。本当に難しかったです。気づいたら「没頭」しています。自分では良かれと思ってやっていることが全て裏目に出るのです。そもそも休み方を知らないし、どうすればいいのよ?って話です。休み方を知らないとは今だから言えることです。「休むこと」をわかったから、「休むことを知らない」と言えています。ただ、当時の自分はこう言うでしょう。「今日もたくさん寝たし、美味しいものも食べたし、ちゃんと休んでるんだけど」と。そうでしょう。休んでいるでしょう。しかし休んでいないのです。何かを不安に感じたり、焦ったりで湧いてくる、期待、希望、願望からの「行動」で動いている限りは、「休むこと」ですら「無理をすること」になるのです。

3.どんな経緯で「無理をすること」をやめられたか

ここまで読んでもおそらく「どうすればいいか結局わからないんだけど」というところが読み手の本音だと思います。「じゃあ、今の私はどうすればいいの?」というのが切実な気持ちです。このnoteを書いている私の場合は、今振り返ると「成り行きで無理をすることをやめることになった」というカタチです。サラリーマンを辞めて、企業戦士を辞めて、私はこのnoteを始めました。そうして溜まりに溜まった闇を出すかのようにnoteに記事を書く表現活動を始めます。それと元々、小学生、中学生の頃にやりたくて仕方なかったゲームを始めます。Nitendo Switchで遊び始めるのです。当時はモンスターハンターライズが発売された頃だったので、それをやりまくっていました。時間はあるので、体力が尽きるまでゲームをやったかと思えば、意識高くなってnoteに舞い戻ってくるという生活をしていました。これを廃人と呼ぶ人がいるかもしれませんが、そんな感じです。先ほども書いたように好きなことをしていれば大丈夫と私は思っていました。満たされている人は皆、好きなことをやって生活していたからです。私もそうしてみたのです。しかし、それだけではダメだったのです。私の場合は好きなことをするにしても「狙い」がありました。生活とのバランスを取るために「不労所得を得たい」という想いがありました。そのために本を書いて売ろう!という思考回路に至るわけなのですが、その前に思考の整理をしよう!ということでnoteにアレコレ書いていたカタチです。そうしてテーマがあれこれ出せたら本を一生懸命書いてました。サラリーマンで働いていた時のように、頭を使って、無理をして本を書きました。文章を書くことは好きなのですが、やり過ぎると、正直なんだか辛くなることがあります。赤裸々に語り過ぎたり、体裁を保ち続けたり、なんだか緊張する状態が続いてしまうのです。一応私なりに「好きなことを」「無理なくできるように」と「満たされる人」になる工夫をするのです。しかし「工夫」をしている時点で「無理」をしている私がいました。結局、何をしても疲れて、「もう一回同じことをやりたい!」とは思えない私がいました。こうして本を出版する流れは今の所とまるに至ります。

「満たされている人」になりたいから、その真似をして「無理なくやる」ことを工夫してやったり、生活とのバランスを考えて「行動」して自発的に行動したりするのですが、結局うまくいきませんでした。そうして「あれ?サラリーマンをやってた方が、幸せだったんじゃない?」と思える時期が到来します。何をやっても疲れていた頃です。美味しいものを食べても「自分は不労所得を得られていないのに、お金使って美味しいもの食べていいのかな」とか「何をやっても、長続きしないから、やっぱりサラリーマンやって何か”やること”があった方が楽だったかな」とかいう想いが湧き上がってくる頃です。これは当時の私なりに「お金を稼がないといけない」「満たされないといけない」という想いに囚われていたためです。そうして落ち込んで何もかも意欲が湧いていかなくなりました。いわゆる無気力みたいな状態です。落ち込んでいる状態です。「なんか毎日楽しくないな」、「一生このままだったらどうしよう」、みたいな感覚で生活していたと思います。いわゆる堕落して意欲もなくなって廃人と化した私は頑張ろうとしても「どうせまた、うまくいかない」「なんややる気が出ない」「楽しくない」という感じ方の世界線にいた時期がありました。「無理をしようにもその気力が湧かない」という時期が到来するのです。

そんな中で年が明けました。サラリーマンを辞めてちょうど1年経ったのです。新年は普段の生活で何もイベントがない私にとっては大イベントでした。家族に会ったり、親しい人と顔を合わせたり、ひとりで部屋に引きこもっている生活と比べてイレギュラーな日々を送りました。1週間程度です。なんか楽しくないなと思っていた私は周りに巻き込まれるカタチで刺激的な日々を送りました。そうしてちょっとだけ機嫌が良くなったのです。そうしてできることの1つであるプログラミングを気分で始めます。初めて読む人もいるかもなので、私について説明しておくと、私はサラリーマン時代、理系の研究者でした。給与や人間関係、その仕事内容も大変恵まれており、プログラミングなんかは息を吸うようにできます。日本人が日本語を話せるレベルにできます。なんというか、本当に無理せずできるのです。理系になったのは「あざとい」私が「一番美味しそうな世界だ」と思ったから選びました。自由で、給与も良くて、周りにいる人も落ち着いてそう、周りからも何かと尊敬されるし、社会的ステータスも良い、何より技術が日々変わって飽きることがないし面白いし…みたいなカタチです。そんな私は自分が無理なくできるプログラミングを始めました。「無理しなくてもできること」なので本当に無理なくできました。家族とたわいもない雑談をする感じでプログラミングをちょっとやってみる過ごし方をしてみたのです。

ちなみに、私は元々理系脳ではありませんでした。幼少期、自然とできることは美術や体育のような感覚でなんか成績を残せるような分野でした。勉強は苦手でした。算数や数学なんてなおさらです。それをちょっとした訓練や自制心でできるようにしたのが私の学生時代です。その結果、後から理系の論理的な考え方やプログラミングスキルというのが身につき、「日本人が日本語話すレベルで、息を吸うようにできるようになる」に至ります。ここで言いたいのは、最初から理系が好きで好きで仕方なかった、というわけではないという話です。私が子供の頃好きだったのは動物さんです。生き物をこよなく愛していました。ウチには色々な種類の動物を飼っていたのですが、日々、そのペットたちと戯れていました。そんな感じの私なわけですが、訓練によってプログラムが息を吸うようにできるようになったのです。サラリーマン時代はそのスキルを使ったりしてました。年齢が上がるごとに管理職になっていて、自分が研究テーマを引っ張っていくカタチとなって、プレイヤからマネージャへと転身していくわけなのですが、サラリーマン時代も相まって元々好きではないプログラミングが無理なくできることだったのです。

年が明ける前までの私は、プログラミングなど理系に関わることは避けていました。元々好きはなかったことは自覚してなかったですし、退職して別にやらなくてもいいわけですから、やっていませんでした。むしろ子供のような自分、満たされる自分になるためには、理系の分野からは離れようとすら思っていました。しかし、自分が好きであろうゲームをやっても、物書きをやってみても、どこか無理が生じました。これらはきっと「息をするようにできないこと」だったからだと思います。つまりは「どこか無理すること」だったのだと思います。取り組んでいると、やってみると、なんだかんだ楽しいので、一年程度は気付きませんでした。しかしもう一回やろうとは思わない私が現れて、「あれ?ゲームも物書きも夢中になってたつもりだったけど、不安をかき消すための没頭だったのかな?」と気づくに至ったカタチです。

年が明けて一通り非日常を味わって気分が良くなった私はノリでプログラミングをやります。ご機嫌なので「プログラムは好きじゃなかったからやらないでおこう」といった狙いのある私が出てきていなかったのです。その前まではどこか不機嫌な私なので「こっちをした方がいい」「あれをやったほうがいい」とカテゴライズしている私はいました。戦略的な私がいました。別にそれでもいいのですが「無意識レベルで無理をしてしまう私」であったわけです。仮面をつけた人は、何をしても仮面をつけた人、生きづらさを感じる人へと戻っていくわけです。日々を「行動」で過ごしてしまいます。対してご機嫌でいれば「行為」で過ごせます。何か期待や希望、狙い、目的、エゴがない中で物事に取り組めるのです。そうして取り組んでできることが「好きこそものの上手なれ」だと思います。

プログラムを始めて、私の在り方は一変しました。無理をしなくなったのです。プログラムは息を吸うようにできます。そのため無理をせずともゲームなどを作れます。それを今は作って生活しているのですが、当初、なりたくてなりたくて仕方なかった「不労所得を得る」というカタチにもなっていますし、結果が出るので安心します。不安要素が消えたので「無理をしてアレをできるようになろう」「コレをできるようにしよう」なんて思いません。ただパソコンに向かったり、歩いてるだけで「次はアレを作ろうかな」「コレをやってみようかな」なんて考えてます。それを試す、という日々です。正直、毎日めっちゃ遊んでるってカタチです。プログラムは元々好きなことではなく、できることの1つであったのは確かです。ただ、やってみると無理なくできることなので、無理しない過ごし方ができることに繋がり、満たされた人になった、というカタチです。ただ、ゲーム作りは総合格闘技のようで好きです。何となく頭の使い方も研究していた頃、サラリーマン時代に似ています。世の中にない自分なりのユニークなものを生み出すのは、働いていた時代も楽しいと感じていましたが、今も本当に楽しいです。

4.今の私が思うこと

私のようにプログラムが息を吸うようにできる人なんて稀だと思います。そもそも理系の研究者になれる人も稀ですし、私自身、そこまでよくぞまぁ行き着いたなぁと思います。だけれども、これを読んでいる人に「あぁ、この人は自分とは頭の作りが違う別世界の人なんだわ」と思って、やっぱ自分はこのままなのかもしれないと落ち込んだりするのは避けたいなぁと思います。こうして書いているのも、かつての私ならこの記事を読んで、今の私と比べて勝手に落ち込むだろうなと思うのです。今の自分に絶望するのではないかと。「あぁ、プログラミングっていう特殊スキル必要なのね」みたいなカタチです。

私は子供の頃から幸せになりたい、満たされたい、という想いが強く、幼少期から私なりに戦略を立ててきました。稀な選択をしてきた私ですが、生活する中で感じた「生きづらさ」は皆さんと変わりないと思います。恵まれた環境に私は身を置いたものの、私自身の感じ方として、私は満たされていませんでした。乾いていました。無気力や虚無感、本当に自分の人生はこれでいいんだろうか?といったことを感じていました。そうして頑張って努力してなった理系の研究者を辞めるに至りました。辞めるのはすごく勇気がいることでした。私の多くの時間をそこにかけてきましたし、頑張ってきたし、大切にしてきたことだったからです。皆さんにもあると思います。手放したくないことが。例えばそれがゲームな人もいるかもしれないですし、子供を一人暮らしさせること、かもしれません。家を売却することかもしれませんし、私と同じようにサラリーマンという状態を手放したくない人もいるでしょう。それを手に入れるために苦労したり、それが昔から欲しくて欲しくてたまらなかったものを持ってて、気に入っている場合、手放すと怖いものです。持ってた方が安心します。私にとってそれが「理系の研究者」という在り方でした。安心していたけれども、私は勇気を持って決断して安心することである「理系の研究者」を白紙にして「より満たされるためにもがく人」となります。大切なもの、努力して得たもの、得たくて得たくて仕方なかったものを手放す決断には勇気が必要でした。ただ、強いて言えば勇気しか必要ありませんでした。えいや、と決めるだけなのです。腹をくくるのです。私はそれくらい「より満たされた時の自分の世界線」の興味がありました。決断するに至りました。

「私自身がより満たされるための模索する時期であるこのnoteを書く」というところに至ります。私なりに考える「満たされていない人」や「満たされている人」をまとめてきたわけですが、私自身も実生活の中で不安な人から満たされる人になろうと奮闘しました。ただただ「より満たされたらどうなるんだろう」という興味から今日まで動いてきたわけです。私はプログラムが結果的に無理をしないことに繋がりました。そこで思うのは全ての人に無理なくできることがあると思います。私のようにその過程でエゴが生じて「行動」するようになり、没頭して疲れる、のような生活パターンで過ごしている人がいるのだと思います。私は好きだと思っていた、動物さんと触れ合うことや絵を描くこと、物書をすること、人と話すこと….書き出したらキリがありませんが、試してみた結果どれも違いました。「何度もやろう!」という気持ちにならなかったのです。こればかりは、誰かに指摘されるのではなく「自分で気づく」しかないと思います。もしかしたら幼い頃から自分を見ている両親が「あなたにはコレじゃない」と言うこともあるかもしれません。しかし今の生きづらさを感じている自分を形成したのは多かれ少なかれ両親、身近な人、が関係しているので、このような人に意見を求めるのはオススメできません。何度も言うようですが、今の満たされない私をつくったのは、その周りの人の影響もあります。おそらく周りの人は「不安な人」です。あなたのことを詮索したり、恩着せがましく接してきたり、何か要求が多かったことでしょう。その人たちにこたえるかのように、搾取される世界で頑張ってきたのです。避けがたい困難の中を今日まで一生懸命生きてきたのです。避けがたい困難をつくっているのは周りの人です。その人たちに「私には何が向いていると思う?」と聞いても、「無理しなきゃできないこと」しか提案しないでしょう。そんな世界でもうこれ以上生きなくていいのです。

それでは「無理なくできることをどうやって発見するか。」これが最大の困難になると思います。私自身も自分の人生をかけて試しましたが、正直難しかったです。年末なんかは、「自分の人生積んだかな?」なんて考えるくらい、上手くいかなかったです。休み方を知らないし、無理しかしてきてなかったですから。それ以外の生き方の体感を持っていなかったのです。無理なくできることを発見するための手段として、私が提案するのは「ミニマリスト」になることです。手放していくのです。その過程で手放すものを手放しすぎたり、手放せすぎて逆に病むなんてこともあるでしょう。それでも手放すのです。すると、自分にとって大切なものだけが何だかんだ残ります。カオスな日常から選択肢が減って判断しやすくなります。「無理なくできること」を発見しやすくなります。ちなみに私はミニマリストです。サラリーマン時代からモノをあまり持たない生活をしていますが、会社をやめてからもその在り方は続いてました。元々やっていたことなので、コレまで「マジおすすめ」と推したりなどはしてきていないですが、今考えると「無理なくできることを発見しやくすくなるかな」と思います。

「モノを手放して無理なくできることを見つけやすくする」ことが「不安な人」が「より満たされる人」になるための手段の1つだと思います。ただ、やりすぎて逆に首を絞めるといいますか、無理をすることに繋がると逆効果だと思うので難しいなと思います。万人に通用するようなアドバイスはないなと感じます。一つ言えるのは、「試してみる」しかないかなと思います。「自分の中の気づきを増やしていく」のです。ただ、日常生活を送っていると、試すことすら大変だったりします。毎日をやりくりするだけでやっとであったりします。難しいですよね。こうして「試してみる」のがいいのでは、「気づきを積み重ねる」のがいいのでは、と言うことは簡単です。私自身、真剣により満たされるために無理しないことを見つけることを模索して思うのですが、言うのは簡単だと思います。実際にやってみると、上手くいかないことだらけです。試しても試してもなんか疲れてしまったりします。ダメなのかなとかネガティブになることだってあります。だけれども、それでも気づきを積み重ねることが、一番の近道で、着実で、不安な人が満たされる人になれる唯一の方法だと思います。気づく方向を「自分の無理しないこと」に集中させるのです。自分がご機嫌になれているか、無理なくできているか、夢中になっているか、またやりたいと思うか、トキメクか、子供のようになっているか、が切り口なのです。判断基準なのです。これは人から言われるものではありません。いつか突然降ってくるものでもありません。自分の試みが、今の自分を作るのではないかなと思うのです。

長くなりましたが、読んでくださりありがとうございました!
それでは、また。



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