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大切に育てられたけど、愛がイメージできない

9日ぶりにこのページを開いています。私の中では随分久しぶりだと思えています。自分について新たな発見があったので、その経緯を語っていこうと思います。

大切に育てられたけど、愛がイメージできない

私は「愛という言葉の意味はわかるが、イメージができない状態だと思います。これはどういうことかと言えば、私は「親から愛された瞬間ってどんな時?」と言われた時に即答できないのです。

私は親に大切に育てられました。それは親のペットへの接し方を見ていれば分かります。親は毎日、ペットの水を変え、新鮮なご飯をあげます。寝床の新聞紙を変えたり、ご飯を食べる時は見守っています。これはウチのペットが寂しがり屋で、人がいるところではないとご飯を食べないという性質があるからです。他にも寝る時間になったら寝室に導き、暖かい布をゲージにかけてあげます。親に仕事がある日は、「ペットが寂しがるから」とどこにも寄らず早足で帰ってきます。家を離れるわけにはいかないので、長い間旅行にも行っていません。日々ペットのことを思いやっています。

先日面白い記事を読みました。軽井沢には捨てられているペットが多いそうです。夏休みに別荘に行きます。そうして現実感覚がない中でペットを飼います。その一夏は楽しいですが、日常生活を送っていると、面倒なことも出てきます。散歩や餌やり。これまで好き勝手できたことができなくなることがあります。そんな中で、何か日常生活に支障をきたすようなイベントが起こると、捨てるに至るわけです。

私の親には軽井沢でペットを捨てるような人とは異なり、現実感覚がありました。親は子供である私に対して、ペット同様に現実感覚を持って大切に育てました。あれこれ大変なことはあるけれども、一緒にいて楽しいね、ほっこりするね、という形のやさしさがある世界で育ったのです。

しかし、私は愛という言葉の意味は理解できるけれども、イメージができません。「親から愛された瞬間ってどんな時?」と聞かれた時に即答できないのです。それではどうして私が「親から愛された瞬間ってどんな時?」をイメージするに至ったかと言えば、「悩みがないことが悩み」な状態に至っているからです。

愛がイメージできない私はどんな人?

私について話すと、現在無職です。旦那さんがいるので専業主婦とも言い換えることができます。そんな私はかつては理系の研究職をしていました。さらに遡ると大学の頃は首席でした。過去の私は一見、輝かしい世界にいました。自分でも努力したな、遠くまで行き着いたなと回顧することができます。しかし私は、かつて憧れた世界に行って成果を上げたり、人間関係に恵まれても満たされませんでした。焦燥感がつのったのです。この話はかつてのブログで書いているのでここでは割愛しますが、理想を実現しても満足しなかったのです。そうして「自分の心にこたえよう」ということを考えて、大変恵まれた環境に見切りをつけて無職となったのです。

無職になって最初のうちは環境に慣れませんでしたが、次第に落ち着いて行きました。最近「自信を測定する性格診断」を行ったのですが、100点を出すほどでした。ある意味「自己肯定感が高い」と言えるでしょう。

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そうして最近至った境地が「悩みがないことが悩み」な状態なのです。私はこれを「なんだか変だぞ」と捉えました。「悩みがないことが悩み」というのは満たされていると捉えられますが、なぜだか夢中になれることが見つからないのです。

無気力というわけではないですが、特に何かやりたいと思うことがないのです。欲が本当にないのです。もちろん、お手洗いに行きたい、髪を洗いたい、お腹が空いたからご飯を食べたい、眠くなったから寝たいという生活を支える欲求はあるのですが、「〇〇が食べたい」などこだわりを持った欲求がないのです。その延長で日常生活でやりたいことがまるでないのです。時間を持て余してしまいます。そうして「1日どう過ごそうか」となるわけです。

私は無職、又の名を専業主婦なので、比較的自由な時間は多いです。朝、洗濯機を回して干せば、家事は終わりです。基本的に外食、外で売っているものを食べる生活をしているので、自分で自炊することもありません。ご飯ですらパックのご飯です。

冗長になりましたが、時間がある生活をしているので、何でもできるのですが、特にやりたいことがないのです。以前は「ウィングスパン」というボードゲームにハマっていましたが、今では夜に旦那とやって楽しむくらいです。ひとりの時間ではやらなくなりました。あまりにも時間があるので、過去の自分の写真を整理したりしていました。それを家族に送ったら「暇だね」と言われたくらいです。(ちなみに、私は家族に暇だねと言われて少し傷心しました。図星だからです。私自身、どこか時間を持て余していることを気にしていました。)

そうして過去の自分について丁寧に思い出したり向かい合ったりした結果「自分の深層には焦燥感がある」ということに気がつきました。その感覚は日常では感じられないレベルで抱いていることを認識しました。また、深層に対して表層では「虚無感」が私を包んでいることも認識しました。これは「悩みがないことが悩み」と言語化できている私で、何をしても心がトキメカなくなっている状態のことです。

私は膨大な時間の中で、細かく自分に起こった出来事を思い出すという作業を行いました。この時により意識して思い出そうとしたのは「できない自分を思い出す」という作業です。大学で首席だった、理系の研究職をしていたという情報からなんとなくイメージする人もいるかもしれませんが、私は真面目でプライドが高かったのです。そのためどうしてそうなったのかというキーワードが、安易な考えですが「おそらくできない自分を受け入れたくないという心理があった」と仮定して過去を掘り進めていったのです。

すると、これまでの過去を思い出すこととは異なる私の心理状態が生まれました。「辛い」と感じるのです。幼少期に辛かった想い、サラリーマンとなって辛かった当時の生々しい想いが私を襲うのです。私はこれに驚きました。私は比較的自分の過去をなぞってきた方だと思います。思い出したり、向き合ってきた方だと思っていました。自分が認識できる未消化な気持ちには向き合ってきたつもりだったので、今になって当時の「辛い」という感覚が襲うとは思っていなかったのです。

私は気持ちを真っ白なノートに書いていたのですが、そこからいくつか文を抜粋します。

「そんな時間があったら、1問でも2問でも問題を解いた方が良いと思った。”まとめる”ことに夢中になった。それは閉じた自分だけの世界だったから。安心したかった。一息つきたかった。

「00(上司)は本質から逃げている人だった。厄介ごとから逃げ出すような人だった。喉に意思が詰まるようだ。自分が追い詰められている感覚を思い出している。呼吸も浅くなっている。私はゆっくり呼吸した。だいぶ窮屈な感じは無くなっていると思う。」

この文章を書いている時、私は辛かった時の気持ちが湧いてくるのを認識し、観察し、呼吸を深くするなどのその時できる対応をしていました。そういった「自分と向き合う」作業をひとしきり終え、再び辛さを感じていた自分を観察すると「焦燥感」で辛くなっている自分がいたのです。

自己愛性パーソナリティ障害というキーワードとの出会い

そこで私は思いました。「どうして焦燥感を感じるのだろう?」と。しかしその時の私はそれ以上考えても雲を掴む感覚で分からず、近場にショッピングに行ったり、いつものようにゲームをして過ごしていました。そうして寝る時になった時、私は普段ダラダラとYoutubeを見るのですが「毒親呼ばわりされた上に子供が去っていきました。苦しいです。どうしたら、また子供たちと連絡も取れてやり直すことができますか?」という動画がおすすめの動画一覧に出てきました。私は普段、この手の動画は見ないのですが(似たようなスピリチュアル系みたいな動画が関連してオススメに出てきそうと思うため)、この時はなぜかオススメに上がってきて気になったので視聴するに至ったのです。

なおこのタイトルは中々議論のしがいがあると思います。特にヤバいのは「取り戻すことができる」と思っている、支配できると思っている思考が相談内容から読み取れることでしょうか。

それはさておき、「焦燥感」を覚えていた私はこの動画を見ながらなんとなく「親との関係で未解消なことが私に何かあるのだろうか?」と考えていました。この動画は面白いなと感じでいたのですが、次に再生された動画こそが「自己愛性パーソナリティ障害」に関するものでした。

私はこれを何となく聞いていて「コレだ!」と思う感覚がありました。自分はコレに該当する、と何となく直感で思いました。早速「自己愛性パーソナリティ障害」について調べました。医師の基準に自分を当てはめてみましたが、該当しません。しかし、具体例を聞くと「自分かもしれない」と思うので「その傾向があるのかもしれない」と思うに至ったのです

私はあれこれ調べました。すると自己愛性パーソナリティ障害はパーソナリティ障害の一部であり、10種類ある中の一つ、だったり、パーソナリティ障害を3つに切り分けて捉えている医師もいることや、1950年代頃にアメリカで研究が始まり、日本にその研究や症状が入ってきたのは1980年代頃からなど様々なことを知るに至りました。小難しい本から軽い本まで色々と読み漁りましたが、中でも名著だと感じた本はこちらです。

この本の中で冒頭に触れたワンフレーズが出てきます。「愛という言葉の意味はわかるが、イメージができないです。このフレーズには更に続きます。自己愛性パーソナリティ障害の人に親子関係について尋ねると「大切にされたかもしれないけれど、愛されたかどうかわからない」と答える人もいます。

ウチの親はペットを大切に育てています。それは今の親を観察をしていてもありありと手にとるようにわかります。そういった姿から自分も同じように大切に育てられたんだなと安心感を覚えることができます。ただ、この本を読んで思うのです。「私には愛されるという感覚がないのではないか、と」

他にもこの本でお気に入りの表現があります。それは子供と大人の次のやりとりです。

「花子ちゃんは自分のこと好き?」

「好きー!」

「どうして?」

「わかんなーい!けど…

ママが私のこと大好きだから、私も私のことが大好き!だって、私は、ママのことが大好きだから!」

私には「ママが私のこと大好きだから、私も私のことが大好き!だって、私は、ママのことが大好きだから!」と無邪気にこたえる一面はありません。大人は皆自制心があるので、ここまで素直になれる人は少ないのではないでしょうか。だとしてもこの感覚を持っている人はいるはずです。ここで注目したいのは「私にはこの感覚がない」ということなのです。

話は戻りますが、私は「悩みがないことが悩み」という状態です。しかし「やりたいこと」が全くなくて、まぁこれでいいかとも思いつつ、今の状態を少しバランスが取れていないと感じる自分もいました。なぜなら精神的に健康な人には「やりたいこと」があるためです。夢中になること、ひとりで黙々と取り組んで満足感を得ていることがあるためです。私にはどんなに余裕のある生活をしても、何かと色々と試してみても「やりたいこと」がなかったのです。そうして自分を顧みるに至ったわけです。

自己愛性パーソナリティ障害を知っていくうちに気づいたことは「障害という名前がついているが、本人が問題視しなければ”治す”ことをしなくても良い」ということです。パーソナリティという言葉がついているくらい、その性質は気質とも言い換えられるのです。先天的に持ち合わせているものとも認識できますし、後天的に社会生活の中で「その性質を持ち合わせている状態」とも捉えられるわけです。

正直、私は私について治そう!とまでは意気込んでないですが、自尊心や自己愛という点で成長の余地があると認識しました。(自己愛性パーソナリティ障害の根幹には自尊心や自己愛が浮上するため)こうして認識した先に、私の気持ちに変化がありました。

なぜか「意欲」が湧いてきた

それは私に意欲が湧いてきたのです。これまでは「00を食べたい」など何かこだわりがない状態でした。無気力というわけではありませんが、「やりたいと思えることがない」生活を送っていたのです。しかしその状態を疑問視し、自分と向き合い、情報収集したり、自分と付け合わせをする中で「意欲」が湧いていたのです。

まず過去の自分と向き合っている自分には「過去の自分と向き合おう」という意欲がありました。これは「なぜ今の自分は意欲がないのだろう?」という興味からです。そこには「好き」「嫌い」という感情はありませんが、確かに「興味」はありました。

そうして過去の自分に向き合う中で、感情に襲われる自分に出会いました。その証拠に呼吸が浅くなったり、嫌だなという感覚を覚えている自分がいました。私が自分と向き合う上で良かったのは、気持ちに浸りきるのではなく、その観察に徹したことです。自分は今、焦りを覚えている、背中に汗を感じているなど、自分について客観視を続けたのです。実況中継をしたのです。これは私が自分と向き合うことに慣れていることもありますが、久々に「よくできたな」と自分でも感心しています。それくらい今回の私を包み込んだ感情というのは、生々しかったからです。

それを体感したものの、コレは何が原因かは自分では未整理な状態から、たまたま「自己愛性パーソナリティ障害」に出会いました。これは本当に偶然だったのですが、その時の私にはヒットしました。そうして「自己愛性パーソナリティ障害」に興味を持ち、再び「好き」、「嫌い」ではなく「興味」から調べ物をするという「意欲」を元に行動している自分に出会いました。

そうして「自尊心や自己愛」という自分への感覚について知りました。今では過去の自分を思い出した時に感じた「焦り」は「自尊心」や「自己愛」の満たされていない形が「焦り」という感情として自分を包んでいたのかもしれないなと捉えることができます。

このように自分を知るとなぜか私に意欲が湧いてきました。これまでは距離を取っていたコチラのブログにも戻ってくることができています。自分に起こったことをありのままに書けています。

今の私の意欲は自尊心や自己愛を自分で育むことです。これは赤ちゃんがお母さんが見ているところで行動することと同じように、つまりは自分は大丈夫という感覚を得たまま行動するようにすることをやっていくのです。

満たされた先の自分の姿

私には自尊心や自己愛を育んだ後、自分がどうなるかイメージすることができます。それは様々な本を読んで情報を収集した理、自分なりに考えた成果です。自分がどのような姿になるのか、書き残そうと思います。

人とお話しする時は、常に対等な立場でと無意識のうちに意識する自分が現れると思います。そして相手の置かれている状況や立場、気持ちによく関心を払い、相手の気持ちを汲み取ろうとする自分になるのではないでしょうか。結局のところ、この形が皆HAPPYになる形と理解しているからです。

そして強い自尊心と自信を持っているので、夢に対して着実に進むことができると思います。今の私は「夢」をイメージできていないですが、そのうち「こうするとなんか面白くなりそうだ」と本来の私の良さである嗅覚を掘り起こして人生を進んでいくと思います。

成功しても、それをひけらかしたり、傲慢になることもないと思います。対して相手を迎合したり、へりくだる自分もいないでしょう。あくまで対等に接するのです。

そして「自分のこうしたい」という想いと「相手のこうしたい」という想いを混同せずに、バランスよく物事を進める私が出てくると思います。その上で執着があるような危険な相手が出てきて、攻撃や搾取をされた場合でも、過剰に反応せず受け流す自分がいるでしょう。弱みを指摘されたりするのは苦しいものですが、それが成長に繋がると捉えるでしょう。

また、相手の真相の想いなどにも注意を向けて接する自分がいると思います。元々相手の真意を汲み取ることが上手な私なので、その能力が気にしいで自分の囚われを強くする方向にベクトルが向くのではなく、置かれている状況を前進させていこうとする力に変わると思います。

私はこれまで「不安な人」や「安心している人」という切り口で自分を分析したり、私の身の回りの人について紹介してきました。それに至ったのも何より私自身が、私の囚われや執着に気がついて、考えてきた結果なのです。

私は自分に囚われない視野の広い人になろうとしているのかもしれません。それが時には自分を成長させようとする思いとなり、絵画を熱心に取り組んだ時もありました。最近では人の囚われについて考え、恵まれた職場を辞めるまでの選択を私自身するに至りました。表現や挑戦を通じて、自分を更に超えてきこうとする自分がいるのだと思います。

長くなりましたが、以上が最近の私のメイントピックといったところでしょうか。書き起こすと、前進していると更に実感できて気持ちの良いものだなと思います。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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