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日本語能力試験は教育の質を測れるのか?

noteに書くのが、随分久しぶりになってしまいました。
ここのところ、新しい在留資格「特定技能」がらみで、日本語教育がいつになく取り上げられるようになりました。動きが激しく、調べること、考えることもたくさんありすぎて、書くことが追いつかなくなってきました。しかし、2019年4月の施行に向けて、あまり時間が残されていませんので、徐々に考えをまとめていきたいと思います。
今回は、まず「日本語能力試験(JLPT)」について書きたいと思います。

はじめに ーなぜこのテーマについて書くのかー

タイトルの話に入る前に、なぜこのテーマについて書こうと思ったのかについて説明したいと思います。
(「日本語学校」に興味がない方は、読み飛ばしてください)

前置きとして「外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議」において、2018年12月25日付で了承された「外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策」について説明しておきたいと思います。今後の外国人材の受け入れ政策は、この「総合的対応策」が基本的な考え方になると思われるからです。

外国人材の受け入れ・共生のための総合的対応策(概要)
外国人材の受け入れ・共生のための総合的対応策(本文)

この「総合的対応策」の中で私が特に気になったのが、「生活者としての外国人に対する支援」の「(3)円滑なコミュニケーションの実現」という項目です。②として「日本語教育機関の質の向上・適正な管理」という一節があります。「日本語教育機関」というのは、いわゆる日本語学校のことです。
「円滑なコミュニケーションの実現」の下位項目に位置付けられているのも気になるところですが、詳しく読んでいくと、「コミュニケーション」というよりも、むしろ、「日本語学校の適正な管理」に重きがあるように読み取れます。
そして、最も気になる部分が、下記の施策です。

留学生を受け入れることができる日本語教育機関を法務大臣が指定する告示である留学告示からの抹消の基準について、従前から告示基準に存在する抹消の基準である全生徒の出席率、全生徒に占める不法残留者等の割合等の基準を厳格化するとともに、新たな抹消の基準として、留学生の日本語能力に係る試験の合格率等による厳格な数値基準を導入する。〔法務省、文部科学省〕(施策番号56)

簡単にいうと、「留学生の日本語能力の試験の合格率が低かったら、日本語学校の告示を取り消すよ」ということです。

ここでいう「日本語能力に係る試験」については、具体的に明記されていないのですが、在留資格の申請時に必要な試験として、「公益財団法人日本国際教育支援協会及び国際交流基金が実施する日本語能力試験」(以下、JLPT)が使われていることを考えても、JLPTが基準の中心になると思われます。

前置きが長くなりましたが、「日本語教育の質を評価するもの」として、JLPTが基準とされた(しかも「厳格な数値基準」)ことに、日本語学校に関わる者として、危機感を覚えます。そこで、今回は、日本語教育の質を判断する際の基準としてJLPTが適切なのか、ということを考えてみたいと思います。

JLPTは、日本語教育の質の評価として妥当なのか

結論から言うと、私は、JLPTのような日本語の試験によって、日本語教育の質を評価すべきではないと思っています。理由は、ざっくり言うと、以下の2点です。

1. 画一的な試験の合格率による評価基準は、画一的な教育へと言語教育の質を低下させる
2. そもそもJLPTでは、日本語能力の一部分しか測れない

まず、1について書きます。

「日本語学校」は、一般的に、日本の高等教育機関へ進学する留学生のための予備教育機関と位置づけられています。多くの日本語学校が「進学コース」を設けているのはそのためです。ただ、10年以上(私のがこの業界に入って以来ずっと)、日本語学習者の目的の多様化ということが指摘されています。実際、日本語学校では、様々な目的を持った学習者が在籍しています。(ちなみに、私が勤務する日本語学校は「就職コース」しか設けていません)そのような多様な学習者が在籍する日本語学校において、JLPTの合格率という単一のものさしで、その質が測れるわけがありません。

また、多くの日本語学校は、株式会社によって運営されており、文科省によって定められた「学習指導要領」のようなものはありません。ですから、私は、それぞれの学校が、実情にあった特色あるカリキュラムを打ち出していく自由が担保されるべきだと思っています。

日本語の試験の合格率という数値基準を導入した場合、学校存続のために、試験に合格することが教育の第一の目的になることが懸念され、かえって言語教育の質の低下を招くのではないかと思っています。
日本語学校の適正な管理と日本語教育の質の向上は、別々に対策を考えるべき事案であり、同一の施策で対応すべきではないというのが私の意見です。

以下の章では、2について書いていきたいと思います。

JLPTでは何を測っているのか

以前に、noteで「「JLPT」とは何か」というテーマで書きました。

この中でも少し触れたのですが、JLPTでは、「読む」と「聞く」という言語行動でしか評価をしていません。しかし「あの人は、コミュニケーション力が高い」といった場合、「話す」ことをイメージするのではないでしょうか。でも、この試験では、「話す」能力は測定していないのです。それでは、JLPTでは「聞く」「読む」という言語行動の何を測っているのでしょうか。現在の私たちの言語行動と照らし合わせながら考えてみたいと思います。

ここでは説明をしやすくするために、認定の目安が「日常的な場面で使われる日本語の理解に加え、より幅広ひろい場面で使われる日本語をある程度理解することができる」とされるN2レベルを中心に見ていきます。

聞くこと

「聞く」ことにおけるN2の認定の目安は、下記のように説明されています。

日常的な場面に加えて幅広い場面で、自然に近いスピードの、まとまりのある会話やニュースを聞いて、話の流れや内容、登場人物の関係を理解したり、要旨を把握したりすることができる。

試験だから当然なんですが、「わからない」部分を相手に聞き返したり、確認したりするスキルは求められません。一方的に流れてくるニュースや会話を聞いて、その状況を判断することが求められます。まあ、これも必要なスキルではあるのですが、実際には「聞く」という言語行動の一部分でしかありません。

読むこと

「読む」ことにおけるN2の認定の目安は、下記の2点です。

・幅広い話題について書かれた新聞や雑誌の記事・解説、平易な評論など、論旨が明快な文章を読んで文章の内容を理解することができる。
・一般的な話題に関する読み物を読んで、話の流れや表現意図を理解することができる。

目安の一つに「新聞、雑誌の記事・解説」が取り上げられていますが、現在の私たちの生活では、スマホやパソコンでこれらの記事を読むことがほとんどです。スマホやパソコンでテキストデータになっているものを読む場合、Google翻訳等で自動翻訳し、母語で内容を把握することも可能です。紙に印刷されたものであっても、OCRの技術を使って自動翻訳することもできます。

このようなツールを使うことは、本当の「読解力」ではないという指摘もあります。しかし、私たちが「読む」という言語行動をとるとき、「読む」ための目的が存在します。例えば、読んで、自分の見識を広げたり、読んだ内容について議論したり、また、読んで得た知識を自分のビジネスに応用したりすることもあるでしょう。本来このような目的のために「読む」行動をとります。この本来の目的を達成するために、必要なツールを使うことは、特段、非難されることではないと、私は考えます。

さらに、評価の目安には触れられていませんが、メールやSNSでのやりとりも「読む」言語行動とは、切っても切り離せないスキルです。(メールについては、試験問題として出題されているようですが、あくまでも「紙」に印刷されたメールを「読む」ことになります)

また、2つ目の目安に書かれている「話の流れや表現意図を理解する」では、いわゆる「読解力」が問われると思いますが、このような日本語の「読解力」は、すべての学習者に求めるべきものでもないと思います。

書くこと

試験の評価項目には入っていませんが、SNSの普及によって、書かれたものを読むだけでなく、「書く」ことも重要なスキルになっています。「コミュニケーション力」を考えたとき、最近では「話す」より、「書く」ことの方が中心になる場合もあります。しかし、試験では、SNSに書かれたものを読んで、「書く」というスキルは測られません。

さらに、最近では、筆記具を使って紙に文字を書くということもすっかり少なくなりました。入力も予測変換がかなり進化してきていますし、音声入力の技術も発達してきました。こう考えると、「書く」という言語行動も、従来の方法を見直す必要があるでしょう。


このように、現在の日常生活を振り返ってみると、試験で測られる日本語能力と実生活がかなり乖離してきているのがわかります。

このような現実があるにも関わらず、「試験のために」現実とは異なる言語行動をわざわざ取り上げ、練習することに、それほど必要性を感じない学習者がいるはずですし、試験に縛られない、より現実の言語行動に沿ったカリキュラムを選択する自由があってもいいと思います。

「課題遂行のための言語コミュニケーション能力」とはどのようなものか

では、もっと根本的なところで、JLPTは、どんな日本語能力を測っているのかを考えてみたいと思います。

JLPTでは、「課題遂行のための言語コミュニケーション能力を測る」とされています。しかし、ここにも大きな疑問が残ります。
なぜなら現在社会では、この「課題遂行」という点も大きく変化してきているからです。(ここでいう「課題」とは、先ほどの「読む」で取り上げたように、「読む」ことの先にある「目的」と考えます)

例えば、よく日本語の教科書で取り上げられる「道案内」の場面について考えてみます。自分で地図を見ながら、通りがかりの人に道を尋ね、目的の場所に到達するという課題を遂行します。しかし、この場面も、実際の行動を振り返ってみると、ほとんどがGoogle Map等を使って、目的の場所まで行くことが多いのではないでしょうか。他にも、よく取り上げられる駅で切符を買ったり、デパートで買い物をしたりといった課題も、ICカードをかざすだけだったり、ネット通販でゆっくり考えながらできてしまったりします。

実際に、先の法務省の「総合的対応策」でも、「多言語音声翻訳システム」の利用促進が明記され、開発にも8億円の予算がついています。このようなシステムの精度が上がれば、「課題遂行」力も向上すると思います。むしろ、自身の持つ言語力だけに頼って、課題を遂行することの方が、非現実的であるように思います。

「課題遂行」ではなく「課題解決」

このようにみてくると、従来の言語行動の多くが、ITの力で解決できるようになっているのがわかります。今後は、さらに多くの課題がITの力で遂行できるようになるのではないでしょうか。しかし、そうなったとき、言語教育では何をすればいいのでしょうか。ここで、もう一度、言語教育のあり方をしっかり考える必要がありそうです。

これからの社会は、様々な背景や考えを持つ人が一緒に暮らしていくようになります。また、今まで、予想もつかなかった新しい課題にも直面するようになると思います。そうなったときに必要なのは、「課題を解決する力」です。

「課題を解決する」ためには、まず、他者と言葉を交わすことが必要です。あーでもない、こーでもないと様々なやりとりをしながら、より良い方法を見つけていくことが求められます。今後、このような言語能力が、課題遂行能力よりも重視されていくのではないかと思います。そして、このような言語能力を育むためには、どのようなカリキュラムが必要か、言語教育に関わるものとして、真剣に考えていく必要があると思います。現状と将来をどのように捉え、そこにどのように言語教育を位置づけていくのかということが、私にとっては、試験対策をどうするべきかより、もっと重要な課題になっています。

JLPTが日本語能力の一部しか測定しておらず、一方通行の試験を評価の基準にすることによって、教育の質が低下すると考えるのは以上のような理由です。

確かに、今の日本語学校のあり方には、多くの問題があることも事実です。しかし、それを解決するために、一方的に「試験」を押し付けるのではなく、もっと自由な解決策を見出す裁量を、それぞれの教育機関に与えるべきです。豊かなコミュニケーションは、自由な日本語教育の現場のあり方を保証してこそ、育まれるのではないかと思っています。「規制」とか「管理」からは、豊かな創造力は生まれないというのが、現在、私が携わっている現場から学んだことです。

追記1

2019年1月31日、「日本語学校教育を考える日本語教師の会」(一般財団法人日本語教育振興協会日本語学校教育研究大会実行委員会の日本語教師有志による会)により「私たちはなぜ日本に来たのか、何を学んだのか ー私たちが日本学校で学ぶ理由」という小冊子が作成されました。この冊子は、政治、国・行政の関係各所に届けることを目的として作られたもので、日本語学校に通う学生たちの様々な思いが綴られています。学生にとって、日本語学校が豊かな学びの場となっていることが感じられ、とても興味深く読みました。このような声を、政治の場に届けることも、日本語教師の役割の一つではないかと感じました。

追記2

先の「総合的対応策」の「留学生の就職等の支援」の部分には、下記のような記述がありました。(ちょっと長いですが、施策を全て抜粋します)

留学生の採用時に高い日本語能力(例えば、日本語能力試験N1相当以上)を求める企業もみられるが、業務に必要な日本語能力のレベルは企業ごとに様々であり、採用時に求める日本語能力水準には多様性があること等を踏まえ、その多様性に応じた採用プロセス及び採用後の待遇の多様化を推進する。そのため、関係省庁、産業界、就職支援事業者、大学等が連携し、採用後の多様な人材育成・ 待遇等のベストプラクティスを構築し横展開する。また、先進的な留学生向けの取組を行っている企業や大学等からの情報発信を促すため、関係省庁からの周知を徹底していく。〔経済産業省(厚生労働省、文部科学省等関係省庁)〕《施策番号 74》

やんわりと「日本語能力試験に頼るな」と説いているように読み取れます。案外、仕事でのパフォーマンスが重視される産業界のほうが、試験結果と実際の日本語能力の乖離を実感しているのかもしれません。日本語教育の現場より、産業界のほうがより早く、試験離れが進んでいくのではないかと思いました。この点については、また、別の機会に書こうと思います。


共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!