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「読解力」を測定するということ 【その2】

先日、JLPTの「読解」についてあれこれ考えてみました。

このnoteを書きながら、「文章が読めるってどういうことだろうな」というのが気になり、下記の本を読んでみました。
新井紀子(2019)『AIに負けない子どもを育てる』(以下『AIに負けない』)

『AIに負けない』は、下記の続編です。
新井紀子(2018)『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(以下『教科書が読めない』)

どちらも、ベストセラーになっているので、今更、内容について詳しく説明する必要はないとは思いますが、『AIに負けない』では、「読める」とはどういうことかを考えるための様々な具体的事例が、データ、実践例を元に説明されていました。

「読解力」を判定するって、ものすごく難しいことだと改めて思ったのですが、今回は、この本を読みながら「読解」について考えたことを、書いてみたいと思います。

「読解」の授業での苦い経験

「読めるとはどういうことか」を考えるために、はじめに私の苦い経験について話しておきたいと思います。

日本語教師になって間もない頃、私は、読解の授業で学生からクレームをもらったことがあります。

先生の授業のやり方に疑問を感じているので、話し合いをさせてほしい」と学生から言われました。教師に直接ここまで言ってくるということは、それまでに学生の間で相当、葛藤や議論があったと思います。そしてまた、そのような気持ちを抱きながら授業を受けていたことに、全く気がつかなかった私も非常に未熟だったと思います。

「じゃ、みんなの意見を聞きましょう。授業中に時間を取ります」
と内心ドキドキしながら応じました。

で、授業が始まってから、話し合いを始めたのですが、いざ、始めてみると、なんか学生たちも居心地悪そうで、モジモジしていて、なかなか意見が出てこない。私もちょっと拍子抜けして、学生の発言をずっと待っていると、
「やっぱり先生を目の前にして、直接話すのは難しいので、紙に書かせてほしい」
ということになりました。そこで、急遽、コピー用紙を切って、学生に渡し、意見を書いてもらうことにしました。

その時の内容は以下のようなものです。

・読解の授業で考える時間を取りすぎる
・もっとテンポよく進めてほしい
・結局、何が正解かわからない
・授業が終わったあとに、「わかった」という気持ちにならない

と、今思い出しても、結構厳しい意見でした。

ただ、学生たちは、私に対して最大限の敬意を払ってくれ、慣れない敬語を無理矢理使って、意見を書いてくれました。敬語を使いすぎて、なんだか意味のわかりにくい文になっていたものもありました。

さらに、このような話し合いの場を持ったことは、他の先生に言わないでほしいと念押しされました。なぜなら、学生からクレームがあったという事実によって、私の評価が下がってしまうことに配慮してくれたのでした。
(言っちゃったけどww)

ということで、これが私と「読解」との格闘の始まりでした。「読めるとは何か」を考えるときには、避けて通れない私の苦い経験です。

「リーディングスキルテスト」

『AIに負けない』では、子どもたちの「読解力」について、かなり危機的に語られています。その「読解力」をめぐる議論のもとになるのが、新井氏の開発した「リーディングスキルテスト」(以下、RST)です。この「RST」とは、東ロボくんで知られる「ロボットは東大に入れるか」というAIの開発プロジェクトの経験から生まれた「読解力を測るテスト」です。

「RST」は、「事実について書かれた短文を正確に読むスキル」を測るとして、以下の6分野に分類してテストが設計されています。

1. 係り受け解析:文の基本構造(主語・述語・目的語)を把握する力
2. 照応解決:指示代名詞が指すものや、省略された主語や目的語を把握する力
3. 同義文判定:2文の意味が同一であるかどうかを正しく判定する力
4. 推論:小学6年生までに学校で習う基本的知識と日常生活から得られる常識を動員して文の意味を理解する力
5. イメージ同定:文章を図やグラフと比べて、内容が一致しているかどうかを認識する能力
6. 具体的同定:言葉の定義を読んでそれと合致する具体例を認識する能力
(p.82)

『AIに負けない』では、「RST」の体験版が公開されています。実際にやってみると、たったの28問の設問数であるにも関わらず、自分の「読み」の傾向がよくわかる結果となりました。

が、結果は散々なものでした。私が特にショックだったのは、日本語教師という立場の自分が、「試験のための読み」にかなり毒されていたということです。

日本語教師として、恥を忍んで自分の結果を公開します。(冒頭のエピソードとこの結果だけ見たら、この仕事続けていいのか不安になるなぁ)どれも10点満点です。

1. 係り受け解析 10点
2. 照応解決 10点
3. 同義分判定 10点
4. 推論 2点
5. イメージ同定 6点
6-1. 具体例同定(辞書)5点
6-2. 具体的同定(理数)4点

「係り受け解析」「照応解決」「同義文判定」は、短い文章の構造を理解した上で、正確に意味を読み取れているかどうかを判定するものです。これについては、満点だったので、日本語教師として面目躍如といったところです。

しかし、その後の解答はひどい。

ショックを受けつつも、自己分析してみると、自分の「読み」の傾向が見えてきたように思います。

多分に作問者の意図を忖度しようとしたり、勝手な自己判断をして、設問に書かれていない条件を付け加えて読んでしまったり、また、読み自体が浅く、必要な情報をきちんと整理して照らし合わせて考えることをしていなかったりと、実生活でも重要な読み方が、活用できていないように思いました。

答えがわかった上で、改めて文章を読み返してみると、確かに全て文章中に答えが書いてあるのです。それなのに、正確に回答できなかったという悔しさがあった一方で、テストという文脈でなかったら、もっと違う読み方をしたのではないか? このテストができたら本当に「読める」と言えるのだろうか?という疑問も生まれました。(結果が悪かったので、負け惜しみもあるかもしれません)

「読解」という授業のあり方

そこで、思い出したのが、冒頭に記した「事件」です。

当時、担当していた「読解」の授業というのは、JLPTの対策を中心としたものでした。当時の改定前JLPTは、今よりももっと、国語的な試験に近い設問が多かったように思います。(例えば、指示詞の指すものや筆者の意見や気持ちを問うような問題が多かったと記憶しています)

私は、「読み」には、多様な視点が存在するし、存在したほうがおもしろいとも思っているので、「答えはこれです」と、一つの答えに限定することに抵抗を感じます。たとえ、4択の答えが間違っていたとしても、なぜそれを選んだのかという理由を聞いていくと、あながち間違いではないと思えることもあります。

そうして、答えを曖昧にしたまま授業を進めた結果、冒頭のようなクレームが出てしまったのだと、今では分析しています。「みんな違ってみんないい」という授業を展開していたのだと思います。

今から考えると、「ここは、絶対に読み誤ってはいけない」というポイントがあり、本来であれば、そこをきっちり押さえるべきだったと思います。そのポイントを踏まえた上で、あなたはどう思うのか?を考えるべきだったのです。

しかし、当時の私は、そういうメリハリのある授業はできていませんでした。学生の意見を聞き、「そうだよね、そういう考え方もあるよね」と全部を受け入れてしまっていました。

前回のnoteでは、「JLPTでは自分の経験や考えは保留して読む必要がある」と指摘しましたが、そのような視点は、この頃は持っていませんでした。筆者の意見、読み手の意見、どれもごちゃ混ぜに扱っていたのだと思います。だから、余計に曖昧な授業になっていたのでしょう。

新井氏の開発した「RST」は、最低限押さえなければならないポイントを確認するためのテストだと、私は理解しました。扱われている文章は、教科書に出てくるような定義文や説明文であり、筆者の意見や考え方を問うような問題はありません。この定義や説明を正確に理解するというのは、重要な読解スキルだと思います。

例えば、専門書を読むときは、専門用語を正確に理解する必要がありますし、専門書でなくても、そこで扱われている言葉の定義を正確に理解しないまま議論を進めても、永遠に議論は噛み合いません。議論を重ねて、妥協点を見出すことも難しくなります。

しかし、一方で、一つの文章を読んだ読み手全員の理解が完全に一致するということも難しいのではないかと思っています。読み手がそれぞれ経験してきたことや、それぞれが持っている既有知識というのが異なりますから、完全に同じものをイメージするというのはあり得ないのではないかとも思います。

だからこそ、お互いの理解を共有し、それぞれがイメージしているものをすり合わせていくという作業が必要になるのではないかと思います。言語教育という実践現場では、そのようなお互いのイメージのすり合わせの経験をする場でもありたいと思っています。

そう考えると、冒頭の「事件」は、進め方、展開のまずさは否めませんが、ジャンルや読む目的によっては、一つの方向性として、あってもいい授業だとも思っています。ただ、4択から一つを選ぶような読み方を求められる試験対策では通用しない授業で、学生からのクレームはもっともだと思います。

選択肢が存在するテストの弊害

ここで、もう一度考えたいのは、選択肢が存在する「テストとしての読解」のあり方です。(しつこくてすみません!)

「RST」は、テストでもあるので、答えを選ばなければなりません。ただ、答えは一つだけではなく、一つだけのものもあれば、複数選ぶものもありました。選択肢の中から、正答の数も自分で考えて判断するというのは、難易度が上がります。「答えは一つ」と思い込んで解答すると、間違えてしまいます。この点は、非常に興味深いと思いました。

しかし、「AIに負けない」読解力を主張するのであれば、選択肢の存在する「RST」という「テスト」を前面に押し出すことによって、かえって誤解を招くことになるのではないかとも思いました。

実際、新井氏は著書の中で次のように言及しています。

 RSTは達成度テストではありません。100点を目指しましょう、級が上がるように頑張りましょう、というとテストではないのです。あくまでも、いくつかの指標から基礎的・汎用的読解力を「診断」するツールに過ぎません。(p.166)
だから、皆さんにお願いしたいのです。RSTは何度も受験しないでください。1年に1度か2度、成績に無関係だと言われた上で、予習もせずに無防備な状態で解くのが、RSTは最も診断精度が高いのです。(p.168)

わざわざこのような注意喚起をしているのは、実際に、「RST」と同じような問題を毎日ドリルのように解かせるというケースが出てしまっているからです。新井氏は、そのような練習では「読解力」があがるのではなく、「RSTの形式に過剰適応」するだけだとしています。

前回のnoteで、私もJLPTのための練習を繰り返すことの弊害を指摘しましたが、まさしく、試験対策という授業は、JLPTに過剰適応した読み方を助長するだけであって、本当の読解力は養えないのではないかと、非常に共感した箇所です。私たちは、どうしても「テストでいい点を取る」ことを目的化してしまうようです。

この「テストでいい点を取るための読み方」が、新井氏の懸念する『教科書の読めない子ども』を増やしている要因ではないかとも思います。前回のnoteでも書きましたが、よく、試験の攻略法として行われる「はじめに選択肢をチェックしてから、本文の内容とあっている部分を探す」という読み方は、まさに「AI読み」です。

そもそも、AIは、相関関係で正答を導き出しているだけであって、文章の内容を理解しているわけではないと、私は認識しています。つまり、選択肢の中かから、いちばん正解に近いものを統計や確率の計算をもとに探し当てているだけに過ぎないと思うのです。

読解のテストのための練習は、AI読みを助長することになります。AI読みを練習するくらいなら、翻訳アプリを使ったほうが、よほど意味があるんじゃないか…とすら、思ってしまいます。

一方で、非同期型の授業を進めながら悩んでいるのが、非同期型のオンラインで「読解力」を養おうと思うと、読めているのか、読めていないのかを、自己判断する必要があり、そのためには、何らかの答えを提示しなくてはならないという点です。いろいろな方略を試してはいるのですが、「これ」といった方法が見出せません。「読解」については、対面授業を超えるアイデアがまだ浮かんでいないのが現状です。読解力を測るということの難しさを、実感しています。

数学者である新井氏が、「読解」の危機を訴えて、読解力向上のための活動をしていることが非常に興味深いですが、機械によって「読解力を測る」ということと、人間の「読解力をあげる」ということを両立させようとするところに、ジレンマがあるように感じています。

何のために「読む」のか?

ここからは、もう一度、「読解」について考えてみます。

誤解がないように付け加えると、『AIに負けない』では、「読解力」を上げるための非常に具体的な授業例も提示されています。新井氏の提案する授業とは、「読み」を中心に「考える」ということも同時に展開していく授業です。国語でも、算数(数学)でも、どちらも文章を正確に理解することを中心に授業がデザインされていました。近年、「プログラミング思考」が注目されていますが、具体的に ICTを使わなくても、十分に「プログラミング思考」が養える授業ではないかとも思いました。

(実は、以前に、地元の小学生を対象に、プログラミングの授業をしたことがあります。ITエンジニアを目指す日本語学校の留学生と教育学部に在籍する大学生との協働プロジェクトとして行いました。そのとき、「プログラミング思考」とは何かを学生たちとさんざん考えました)

『AIに負けない』で取り上げられていた授業例は、日本の小・中学生向けの授業案でしたが、ここでデザインされた授業の基本的な考え方は、日本語教育における授業としても十分に通用するものだと思いました。むしろ、日本語教育でこそ、このような読解の授業が必要なんじゃないかと思いました。

例えば、今、私が担当している介護の日本語では、専門的な知識を理解しなければなりません。専門用語の定義を、ただ、翻訳して覚えるだけでなく、専門用語の定義を正しく理解することが必要です。そして、その定義を用いて、特定の事例について、適切なのか適切でないのかをきちんと判断するというような読解の授業が考えられます。これは、まさしく現場でも求められる能力なんじゃないかと思います。読解というより、思考力を養うという側面が強いかもしれません。

このような授業を展開しようと思ったら、やはり「読む」という技能だけに限定して授業をデザインするのは、難しいのではないかと思います。言語教育で重要視される「技能」というスキルにフォーカスすればするほど、本来の目的から離れてしまうようにも思います。何のために「読む」のかということを、常に意識しないと、大切なことを見落としてしまうなあと改めて思いました。

そして、やはり「読解力を測ろう」とするところに、無理があるんじゃないかと思いました。「読解」というのは、そもそも測れないものなんじゃないかなーと『AIに負けない』を読んで改めて思っています。

「AIに負けない人間」というのは、日本人だけに必要なものではなく、これからの社会を生きる全ての人に必要なものです。いずれAIに代替されてしまうような人を量産するという授業を展開することだけは避けたいなと、これも自戒を込めて書いておきます。

自分がやっていることに、葛藤があり、モヤモヤした気持ちが続いていましたが、JLPTも終わったことだし、ここで仕切り直して、もう一度、プランを考えてみたいと思います。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました!

共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!