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「松本あめ市とそのルーツに迫る」(下書き)

極普通の所帯持ちサラリーマンEastcubeと申します。
松本に移り住んで十数年ですが、つい数年前から始めたご近所徘徊に端を発し、主に松本地域の歴史やら文化やら伝説やら…そういう方面に興味が尽きない今日この頃です。

さて初春、特に中信エリアでは馴染み深い「あめ市」の季節がやって参りました。
1月〜2月にかけ大町、安曇野など概ね糸魚川と松本を結ぶいわゆる「塩の道」に沿った各地で催されています。
そしてその先駆けとなったのが「松本あめ市」です。
現在も多くの人出で賑わう「あめ市」の「スキマ」にその名残を多く残す、複雑ながら興味深いルーツと歴史に迫ってみました。


「あめ市」とは?

毎年1月の第2土日の2日間に行われる、松本の初春の風物詩「あめ市」。
その歴史は長く2018年で450回目を迎えた、とも言われている。
この催しの中心は松本城下町、親町三町の一つ「本町」。
そして隣接する伊勢町、中町、大名町等市街地各所が歩行者天国となり老舗あめ店による福あめ販売や、ダルマ売りなどの露店が立ち並ぶ。
塩取り合戦や時代行列といった恒例企画もあり、様々な催しが行われる松本城下町の中でもとりわけ城下町らしいお祭りでもある。

例えば、あめ市では御馴染みの光景「ダルマ売り」は地元商人が子供に商売経験を積ませる一環で始まった。豊かな毛と表情が和ませてくれる松本ダルマも松本独特の文化。(松本市立博物館展示物より2017年12月撮影)


「敵に塩を送る」にゆかりを持つ「あめ市」

催しの中心である本町一丁目の交差点には「あめ市」を語るには欠かせない「牛つなぎ石」と呼ばれる石がある。
その場所は古来より「塩の道」と呼ばれ糸魚川と松本を結ぶ「千国街道」の終着点でもある。
そしてこの石はあめ市のルーツを知る重要な足掛かりでもある。

あめ市の起源に大きなゆかりを持つ「牛つなぎ石」(2017年12月撮影)

さて、長い歴史を持つ「あめ市」の起源は
「敵に塩を送る」
の故事で有名な、いわゆる「義塩伝説」に由来する、という話が松本では有名でまことしやかに語られることが多い。

「義塩伝説」
戦国時代、長年の同盟を反故にし今にも攻め込まんとする武田信玄率いる甲斐への対抗策として駿河の今川氏真による塩止めが行われた。塩の流通が止められ甲斐の領民は苦しみ、当時信玄と敵対していた越後の上杉謙信がこの状況を見兼ね、氏真の協力要請を無視し甲斐へ塩を送った、とされるものである。

資料により永禄10(1567)年に武田と今川の関係悪化に端を発する、武田方が駿河に攻め込み自領にした事に今川が怒った事に端を発する(永禄10(1568)年)など、差異はあるものの当時、松本城の前身である深志城にはその城代に武田家家臣、後に武田四天王の一人として数えられる猛将馬場信春が据えられてた。
つまり松本の地はこの頃、甲斐武田の領地であった。(この頃、まだ「松本」という地名はない)

長野における武田と上杉といえば、北信の覇権を争い火花を散らした「川中島の戦い」が有名だが、遂に決着はつかず、永禄7年(1564年)の塩崎の対陣以降は行われてない。
また、この逸話が生まれた頃は武田方は対外方針を変え、上杉との直接的な争いを避けていた。

このような背景はともかく、この塩が1月11日に松本に到着し喜んだ民衆は仮にも武田方の領民であるにも関わらず、義侠心溢れる上杉謙信の徳を大いに讃えたとされる。
そして、この出来事を記念して始まったのが「塩市」今に続く「あめ市」であり、そして前述の「牛つなぎ石」は、その塩を運搬した牛を繋いだ石であると伝えられている。
因みにこの故事に由来し1月11日は「塩の日」とされている。

あめ市の開催が近づくと街に恒例の「義塩伝説」をモチーフにしたポスターが貼られ始める。(2019年1月撮影)


「江戸期のあめ市」と「義塩伝説」

さて、長い歴史を持つあめ市の過去の様子を今に伝える資料の一つとして、嘉永2年(1849年)に名古屋で刊行された
「善光寺道名所図会(ぜんこうじみちめいしょずえ)」
という名所図会がある。
刊行は名古屋の美濃屋伊六。
全5巻あり、その1巻には源智井戸や深志神社など今も変わらず松本の名所となっているものから、廃仏毀釈で失われた若沢寺の往時の様子など松本界隈の名所旧跡が挿絵と共に描かれ紹介されている。
その中に当時の「あめ市」の様子も描かれている。

「善光寺道名所図会」「初市」の項(「信州デジくら」より http://www.i-repository.net/il/meta_pub/G0000307cross

「善光寺道名所図会」では「里老の話」として「初市」もとい「あめ市」の由来が紹介されている。
実はこれが前述の「義塩伝説」を「あめ市」の由来とする逸話の初出なのだそうだ。

里老の話 越後の大将(上杉謙信)がこれを聞き、甲州と信州に塩がつきてしまい、人びとが困っているようすをみて、これは卑怯であり、仁儀の道にも劣ることであるとして、数万駄の塩を甲斐・信濃の両国に融通しました。旱天に潤雨を得たようだと人びとはたいへん喜びました。このめでたいことが今日に至るまで毎年睦月(むつき、1月)11日の初市には、市神の宝前に塩を供えて、集まった人々にふるまっています。
(「NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ」より引用)https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000515100/2000515100100020/ht087114

この「義塩伝説」の逸話。
例えば正徳6年(1716年)に熊沢淡庵が著した逸話集「武将感状記」の中にその原型を見ることができる。
しかし、そこには松本に塩が着いたといった話は特に記されていない。

「武将感状記」(国立国会図書館オンライン)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1109790

つまり、元々あった「義塩伝説」に里老の話として、その義塩が松本に着いたお話が巧妙に付け加えたられたようなのだ。
では、いったい誰が何のために付け加えたのだろうか?

「塩」に縁が深い催しで飴が売られ「あめ市」と称されるに至るほど、かつての松本は「飴屋」が多った。飴の生産量が日本一だった事もあるそうだ。(塩市、初市、あめ市の呼称の変遷についても深い理由があるがここでは言及を避ける)市内では現在も江戸時代創業の老舗飴屋が三軒、営業を続けている。(2018年1月撮影 有志提供)


松本初の書籍専門店 「高美屋 慶林堂」

話は変わるが松本に「高美書店」という老舗の書店がある。
創業は寛政9年(1797年)。
「初代高美甚左衛門常庸(たかみじんざえもんつねもち)」は、本町二丁目で太物、小間物を商う「嶋屋」に生まれ、本好きがこうじて14歳の時にその店の一部を使い、書店「高美屋 慶林堂」を開店する。
しばしば江戸や名古屋へ本の買い付けに出かけ交流の幅も広かった文化人でもあり、例えば東海道中膝栗毛で有名な当時の売れっ子作家「十返舎一九」を呼び自宅に泊めるなどしている。

そう「あめ市」の中心地でもある前述の本町二丁目「牛つなぎ石」の側に「高美屋 慶林堂」、現在の「高美書店」があったのである。
現在は道路拡張の折に伊勢町側に間口を変えて営業されている。

そして前述の「善光寺道名所図会」、刊行にあたって著述協力をしたのが大の本好き「高美甚左衛門」であった。
この名所図会にあめ市の様子が描かれている事は前述のとおりだが、実は「高美屋」の店先での様子であったりする。

善光寺道名所図会より高美屋慶林堂の店先の様子。また、絵図上部に見える「道くるや 暁かけて しほの道」の句は高美甚左衛門によるもの。「照喜」は甚左衛門の俳号(「信州デジくら」より)

現在の高美書店。岩波文庫の品揃えは県内一と評されている硬派な書店。(2017年12月撮影)


「あめ市のルーツ」と「義塩伝説」の仲人

さて、話を元に戻し、あめ市と義塩伝説を巧妙に繋げた立役者は誰なのか?ここから先はまことしやかに語る僕の憶測、仮説、妄想の類だ。

高美甚左衛門が活躍していた当時、松本は商都と称されるほどに商人の力が強かったそうだ。
その年の商売を占う「初市」として、この「あめ市」をより一層盛り上げるために色々と企画したようで、深志神社の市神社から市神を遷座する際の遷座行列なる賑やかな行列が催され始めたのもこの頃である。

天保6(1835)年につくられた絵巻物「市神祭之図」より宝船。現在も行われる時代行列の原型。(2018年 松本市時計博物館「あめ市歴史展示「福の神とあめ市」展示物より撮影)

高美甚左衛門も本町の商人として、そして書籍を好む文化人として、その知見と交流を活かし「あめ市」を大いに盛り上げようと一役買ったのだろう事は想像に難くない。

つまり、高美甚左衛門こそが今に伝わる「あめ市」と「義塩伝説」とを繋ぐ創作を行った人物なのではないだろうか?
書籍を嗜み、それを松本で商売にするほどの人物である。「義塩伝説」についても当然知っていた事だろう。
そして、自身が構える書籍店は古来より「塩の道」の終着地とされてきた場所の目と鼻の先にあるのである。


また、この「初市」は、昔から地蔵清水、(現在の市役所辺り)で1月11日に開かれており、松本の西にある「一日市場」から蛭子の社人が来て塩を広めていた事も「善光寺道名所図会」には書かれている。
当地は江戸期には松本城内となっており、松本城が出来る前のお話の事である。
実はこちらが真っ当な「あめ市」の起源とされているのだが、そこにもちゃんと触れられてる。前述の「牛つなぎ石」はその頃、地蔵清水辺りにあった道祖神(市神様)を城下町整備で本町が作られた折に現在地に移されたもの、と考えられている。

高美書店さんの店舗すぐ側に設けられる仮殿。(2018年1月撮影)深志神社境内にある市神社より市神様が遷座される。前述の蛭子の社人から引き継いだ塩の頒布を行う神事の名残。

そんな「善光寺道名所図会」に元々「塩」との縁が深い「初市」の紹介として巧妙に「義塩伝説」の逸話を持ち出し付け加えるような事が出来たのは、著述協力した「高美甚左衛門」しか考えられないのである。

時を経てその話は大正期に史実か否かの議論を呼ぶ程になったそうだ。
既に市民の中では「塩義伝説」こそあめ市の起源、という説が根付いていたのだろう。
その中で物的証拠「牛つなぎ石」が「誕生」し、益々この伝説は厚みを増していくのであった。

そして遂には前述の通り「敵に塩を送る」の故事の由来として、まことしやかにこの伝説が引用され、それを元に1月11日は「塩の日」となって現在に至るのだから、なんだか痛快ですらある。

高美甚左衛門は、「東海道中膝栗毛」に代表されるいわゆる「滑稽本」で名を馳せた十返舎一句と交流を持つような人物である。
そこから窺い知れる人となりから、さぞかし無邪気に楽しんでこの巧妙な創作を行っただろうと思わざる負えない。
そもそもが由来ベースとなっている上杉謙信のイメージを語る上で代表的な美談でもあるこの「義塩伝説」すら史実ではない、とされているのもとても滑稽だ。

彼が生きた150年程後の現在のこの様子を知ったならば、膝を叩いて大笑いするような気がしてならない。


現在、松本市立時計博物館3Fにて「絵図にみるあめ市」が開催されている。(2019年1月27日まで)
今回の記事内で挙げた「善光寺道名所図会」の原本、江戸期から伝わるあめ市ゆかりの品々の展示や詳細な解説は、市立博物館の常設展示では知り得ない内容盛りだくさんなので、是非足を運んで見てほしい。

展示物の一つ本町三丁目所蔵の「御福様御神像」。描いたのは松本に住んでいた「抱亭五清(ほうていごせい)」という浮世絵師。かの葛飾北斎の弟子でもある。

公式サイト http://matsu-haku.com/tokei/archives/387

そして、そんな展示を担当されている学芸員さんもテキスト代わりに脇に携えていた書籍もおススメ。

松本あめ市実行委員会編 (1997)
『松本のあめ市 その歴史と起源』

刊行はなんと、というべきか当然、というべきか「高美書店」であったりする。
勿論「高美書店」で購入できるので、是非この機会に江戸から続く老舗書店に足を運んでみて、いつもと違ったあめ市の楽しみ方をされてみても良いかもしれない。


その他 参考文献等

鈴木俊幸 (2001)『一九が町にやってきた』 高美書店

豊田庸園(1849)『善光寺道名所図会』美濃屋伊六

松本市 『松本市歴史的風致維持向上計画書』第2章 1松本市における歴史的風致(湧水・商都・ぼんぼん)』
<https://www.city.matsumoto.nagano.jp/shisei/matidukuri/keikan/rekimati.files/P36-57.pdf >

田中基之 (2018)『「敵に塩を送る」本当にあった? 上杉謙信と武田信玄、美談の真相は』
<https://withnews.jp/article/f0180717002qq000000000000000G00110601qq000017487A>

浅岡修一 (1982)『化成期の地方狂歌界-真顔と信濃の結びつきを中心にして-』
< https://www.jstage.jst.go.jp/article/kinseibungei/36/0/36_37/_pdf/-char/ja>

岸野俊彦 (2012) 『近世名古屋書肆の営業展開』
< http://www.nua.ac.jp/kiyou/kiyou002.php?file=/0002%8C%A4%8B%86%8BI%97v%91%E633%8A%AA%81i%98_%95%B6%81j/0025%8A%DD%96%EC%8Fr%95F.pdf&name=%8A%DD%96%EC%8Fr%95F.pdf>

※本記事は2018年「松本あめ市」に合わせ松本で行われたスマートフォン用位置情報利用ゲームアプリ「ingress」の公式イベントにて、参加者に配布された有志作成のノベルティー冊子へ筆者が寄せた記事に、加筆訂正を加え再構成したもの。

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